とある事務所の将棋紀行

将棋の好きなアイドルが好き勝手に語るみたいです。

安部菜々の名局振り返り  鰻屋の復活

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 これまで長きに渡って将棋が指され、あまたの棋譜が残されてきました。その中でも名局と呼ばれる、ひときわ輝きを放つ勝負も、数えきれないほどあります。

 でも……ふと振り返ってみたときに、頭から離れない一局があるんです。その指し手が、悲鳴が、熱狂が……今でも目の前に浮かんでくるような、勝負。


 今回は、そんなお話です。

 

 

第53期王位戦 挑戦者決定戦  

渡辺明竜王藤井猛九段 戦 (2012年5月30日)

 

 昨日のことのように思いだせますけど、もう5年前ですか。時が経つのは早いですねぇ……。少し、昔話をしましょう。

 

 このとき、将棋界の勢力図は大きく動こうとしていました。渡辺竜王(当時)が各棋戦を勝ち上がり、19期連覇していた『無敵王座』こと羽生王座からタイトルを奪取。「世代交代」といった語も、まことしやかにささやかれていました。

 

 この王位戦も勢いを象徴するかのように紅組リーグを4勝1敗で勝ち抜け、挑戦者決定戦に進みました。充実した若手棋士って、負けるイメージが湧かないときがありますよね?まさにそんな状態でした。
 対して白組を勝ち上がったのが、藤井猛九段。藤井システムで棋界を席巻したのも20年近く前のことで、激しく厳しい対システム研究によってパッタリと採用がなくなります。藤井九段曰く『ファーム落ち』の時代ですね。
 以降は角交換四間飛車や藤井矢倉など、さまざまな序盤を編み出してきましたが……思うように勝ちきれない将棋も多々あって。王座戦挑戦や前期王位戦の挑戦者決定戦進出などの活躍もありながら、一方で順位戦ではA級からB級2組まで連即降級を喫していました。
 対戦成績は、渡辺竜王の6勝3敗。持ち時間の長い対局ではことごとく渡辺竜王が制していました。そんな中で、挑戦者決定戦を迎えたのです。
 振り駒で渡辺竜王の先手に。藤井九段が作戦の限られる後手番で、何をぶつけるのか……注目が集まりました。

 

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▲2六歩    △3四歩    ▲7六歩    △4四歩    ▲4八銀    △4二飛

 4手目 △4四歩……この手だけで歓声がわくのは、この人しかいないでしょう。ノーマル四間飛車藤井システム。大一番で指された藤井九段の代名詞に、観戦していたファンは快哉をあげました。

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▲6八玉    △9四歩    ▲7八玉    △7二銀    ▲5六歩    △3三角
▲5八金右  △6四歩    ▲2五歩    △5二金左  ▲5七銀    △3二銀
▲5五角

 藤井システム左美濃穴熊、急戦のすべてに対応するべく研究された四間飛車です。1998年には谷川竜王(当時)を下して、以降3連覇を達成しました。……ですが羽生世代を中心に対策が進み、居飛車も十分に戦えるという認識が広まっていくことになります。
 ファーム落ちから実戦に復帰させたのが2011年の夏、しかし以降もメインで使う状態ではありませんでした。

 ▲5五角と出た手は代表的なシステム対策で、仕掛けに必要な△6四歩を否定しにいく手です。△6三銀で後手陣が崩れるという主張で、本譜は急戦ではなく▲3七角と引いて駒組み勝ちを狙う展開になりました。

 

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     △6三銀    ▲8八玉    △9五歩    ▲3六歩    △4三銀
▲6六歩    △6二玉    ▲1六歩    △5四銀左  ▲3七角    △4五歩
▲6七金    △6五歩    ▲7八金    △7一玉    ▲7七桂    △6六歩
▲同 銀    △6五歩    ▲5七銀    △2二飛    ▲7五歩(上図)

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△7二銀
▲7六金    △8四歩    ▲6八銀上  △4二飛    ▲8六歩    △1四歩
▲6七銀    △3五歩    ▲同 歩    △4四角    ▲2六角    △6三金
▲6八銀    △4六歩

 手順は長くなりますけど、大きな流れとしては先手が位を取って抑える方針。後手は美濃を復活させましたが、動かせる駒が少ない状態。ここは後手の作戦負けですね。先手は指したい手がたくさんあるので、手渡しもできません。後手からの開戦となりました。

 

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▲同 歩    △6六歩    ▲同 銀    △同 角 ▲同 金    △4六飛   
▲4八歩    △3三桂    ▲3四歩    △2六飛 ▲同 飛    △4四角   
▲2七飛    △6六角    ▲3三歩成

 角銀交換で、飛車をさばく。ひとめ無理筋ですけど、これ以外はもっと苦しくなるとみた判断です。先手も強く迎え撃ち、形勢は開いていきました。
 序盤巧者の藤井九段が、作戦負けで中盤戦に入る。このときは、活気とは程遠い雰囲気だったことを覚えています。と金が迫るのは目に見えてますし、金銀だけで先手陣が崩せようには思えません。

 ここから起きたことは、おそらく誰も予想すらしていなかったでしょう。

 

 

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△6九銀 ▲4二と    △4一歩    ▲3二飛    △6二金引

 竜王時代の、藤井九段の棋譜をみるようでした。

 △6九銀、直接金を狙う『ガジガジ流』です。「寄せとは剥がすことなり」という格言もありますが、この局面で打つ棋士は少ないでしょう。そして▲4二とに、△4一歩と受けた手が非凡な好手でした。
 先手の狙いは▲5二と△同金で美濃を崩してから飛車を打つこと。下段の歩は手筋ではありますが、△6九銀から一転して貴重な1歩を受けに使う発想は誰も持っていませんでした。次の△6二金引も、控室から悲鳴があがる一手。美濃囲いを知り尽くしてなければ指せません。△6九銀、△4一歩、△6二金引……バラバラに見えるこの3手で、先手陣に火が付き後手陣は一気に引き締まりました。
 あまりにも高度な応酬に、観ているこちら側は何が起きているのか分からず混乱するばかりでした。ですが簡単に終わりそうにない予感がただよってきたのは、肌で感じていました。

 局面が、控室が、観戦者が……熱を帯びていきます。

 

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▲5五歩    △同 角 ▲7九金    △5八銀成  ▲6七銀    △6八金   
▲5八銀    △同 金 ▲5九歩    △6八銀    ▲7八金    △5七金   
▲8九桂    △4二歩 ▲同飛成    △6六歩    ▲3四角    △4三歩   

 先手がミスをしたというより後手が狙いを上回る好手を指したという表現がふさわしい一連の手順でしたが、ついに▲5五歩で流れが後手に傾きます。
 5筋の歩を切って受けに回るのは、それまでの方針とはちぐはぐです。後手の攻めを受けきれるならそれでいいですけど、ガジガジ流がさらに火を噴くことになりました。
 金銀と角の利きだけで、先手陣が崩壊していきます。絶大だった厚みが消え、剥がされた先手玉は薄く心もとない。対して後手玉は美濃が鉄壁で、攻めに専念できる形。

 こうなったら、本家の鰻屋は止まらない。終盤にさしかかり、熱気は増すばかりです。

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▲6九歩    △7七銀成 ▲同 桂    △6五桂    ▲7六銀    △7七桂成 
▲同 金    △6五桂 

 
 後手の攻めは切れません。10手以上放置していたと金を取って、△6六歩と垂らす。△4三歩と受けて、後手玉は依然鉄壁のまま。さきの▲5五歩が、祟ってきました。そして急所の△6五桂。歩を1枚も余さず攻めが繋がりました。『1歩竜王』を連想させるような……ファンの待ち望んだ藤井将棋です。

 終盤に突入していきますが、ここまでの攻防で対局者は時間をかなり消費していました。渡辺竜王は1分将棋に入り、藤井九段も持ち時間2分。これが、さらなる激戦を呼びます。

 

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▲同 銀    △6七歩成  ▲同 角    △6五銀    ▲5七飛    △7七角成
▲同 玉    △6六銀打  ▲6八玉    △7七金    ▲5八玉    △6七金
▲同 飛    △同銀成    ▲4七玉    △3九飛

 ボロボロと先手の駒が取られていきますが、お互いに時間のない中で後手にもミスが生じました。△6七同成銀がそれで、不成なら5六の地点を塞いでいるから▲同玉と取るしかなく先手は寄ったそうです。でも対局中はそれを精査する時間も、反省する余裕もありません。控室ですら、結論を出せないまま手が進んでいきました。
 裸の先手玉が捕まるのか……中継サイトに映る将棋盤の30秒ごとの更新を、食い入るように見つめていました。

 

 

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▲3七桂    △5六銀 ▲同 玉    △3七飛成  ▲4七金    △3五龍   
▲6七玉    △5五桂 ▲6八玉    △4七桂成  ▲同 歩    △6五龍   
▲6七銀    △6六金 ▲7八銀打  △5七角    ▲5八玉    △3九角成 
▲4八銀    △5五龍 ▲5六桂    △4八馬    ▲同 玉    △5六金   
▲3七角    △5七金 ▲3八玉

 

 打たされたはずの歩の絨毯が、やけに受けに利いてくる。大海を泳ぐ先手玉は、捕まるのかどうかも分からない。そもそも、考える時間もない。理解をとうに置いてきて、熱気と興奮が渦巻いていました。

 何度、悲鳴があがったでしょう。ひたすらに、勝利を求めてもがく両者の指し手が更新されていきました。

 

「人間の勝負だ……」(勝又清和六段)

 

 このコメントが一番よく表していたと思います。今持っているものすべてを、盤にぶつけるような応酬が続きました。

 永遠に続くと思えた終盤も、クライマックス。
 「ひとつ、ひとつだ」のコメントがされた局面です。ここで△4五竜とひとつ寄る手が、分かりにくいですが詰めろだったんですね。

 (変化図)

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△4五龍    ▲7四桂    △4七金    ▲2九玉    △3八銀    ▲1八玉
△2七銀成  ▲同 玉 △3七金    ▲同 玉    △3六歩    ▲3八玉   
△2六桂    ▲3九玉 △5七角    ▲2八玉    △4八龍    ▲1七玉   
△3七龍    ▲2七金 △3九角成(まで、先手玉は詰みとなる)

 ただ、1分将棋でこの手順は難解なうえに読み切らなければ指せません。後から調べればいろいろなことが分かりますけど、詰まなかったら将棋が終わる手順です。

 そして指された手は……ふたつ。これだと先手玉に詰みはありません。▲7四桂で、後手玉にもついに詰めろが掛かりました。
 どちらが勝っているのか分からない、何が指されるかも分からない。観ていた誰もが、この勝負に魅入られていました。

 

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     △3五龍    ▲7四桂    △4六桂    ▲2八玉    △7四歩
▲6四角    △7三桂    ▲4六角引  △3六龍    ▲2七金    △3五桂


 最後に活躍したのは桂馬でした。△4六桂の王手が返し技で、攻守を再び入れ替えます。

▲2七金が最後のミスで、ギリギリ受けになっていなかったんですね。竜を見切って△3五桂が決め手で、先手玉は必至になりました。


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▲3六金    △2七銀    ▲2九玉    △4七金    ▲3九歩    △3八歩
▲6二龍    △同 金    ▲5一飛    △8二玉

 最後の王手ラッシュは、△8二玉でわずかに届かず。美濃囲いの堅さ、遠さ、そして端の位が最後まで活きています。

 

まで、166手で後手、藤井九段の勝利。

 

 息詰まる終盤戦を、ほぼ1分将棋で70手……対局者の疲労は想像を絶しますし、観ていただけでも体力を消耗していました。

 グッタリはしていましたけど、同時にとても幸せな時間でした。感想すら浮かぶ余裕もなくて……「この勝負を観られてよかった」と満足感に浸るばかりでした。

 

 この対局は棋譜だけみれば、互いにミスがある将棋です。本来の「名局」の概念からは、少し逸れているかもしれません。それでもこの勝負には、人の心を動かす力が確かにありました。藤井システムという戦型だったり、対局者の棋風だったり、1分将棋の熱気だったり……一局に収まりきらない数多の積み重ねが、この対局を名局たらしめたと、勝手ながらに思うのです。

 このとき、この2人だからこそ生まれた興奮と感動が、詰まっていました。

 

 そして棋士の歩みは、1局で止まることはありません。挑戦を決めた藤井九段は羽生王位相手に藤井システムと角交換四間飛車を武器に挑みます。
 ここでは棋界の流れを大きく変えるくらい、角交換四間飛車が大活躍をするのですが……それはまた、別のお話です。

 

 最後にこの王位戦の前に寄せられた文を紹介して、終わりとします。

 

「B1から落ちたら墓場だと思っていた。でも、そうじゃないんだ。落ちたらまた上がればいいんだよ。そう思えない精神状態がおかしいんだ。何度でも上がればいいんだから」(藤井猛九段、将棋世界2012年5月号より)

 

 

 技術も、体力も大切ですけど……最後の最後に輝くのは、「諦めないこと」なのかもしれません。

 

(了)

佐久間まゆの徒然観戦  悲願の季節

 

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 9年前、羽生ファンは涙をのみました。

 

 それからは毎年のように期待を抱いて、くちびるを噛みしめる季節がやってきて。いつの間か、かなりの年月が経っていたようです。

 永世七冠……絵空事のような、作り話でも描けないような偉業を目の前にして、あと1期。

 竜王戦だけは、観る側にとって特別なものであり続けています。

 

 羽生善治三冠、通算タイトル98期。7大タイトルですから、平均すると1つにつき10期以上獲得していることになります。想像もできない数字ですけど、実際はタイトルごとに大きな偏りがあります。

 最多は王座戦で通算24期。でも竜王戦は……通算6期です。それでも歴代2位ですし、これだけでも偉大な記録ですけど『永世称号』がまだなんです。タイトルにおける、殿堂入りにみたいなものですね。

 棋戦ごとに違いますけど、竜王位は連続5期、通算7期で永世称号の資格を得ます。

 竜王戦は2003年に失冠してから、奪取できていません。10年以上、あと1期が続いてるわけです。

 少なくとも、ファンにとっては……悲願といえるでしょう。

 

そして、今年もまた……この季節がやってきました。

 

(2017年7月31日)

第30期竜王戦 挑戦者決定トーナメント準決勝

羽生善治三冠―稲葉陽八段 戦

 

 竜王戦は1組から6組に分かれてトーナメントを行い、上位者が挑戦者決定トーナメントに進めます。細かなところは複雑ですけど……挑決トーナメントは「負けたら終わり」です。

 毎年のように、勢いに乗った若手や実力者が激戦を繰り広げています。対戦相手の稲葉八段も、今期名人戦の挑戦者になった方ですね。居飛車党で、受けや粘りに定評があります。

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▲7六歩    △3四歩    ▲2六歩    △8四歩    ▲2五歩    △8五歩
▲7八金    △3二金    ▲2四歩    △同 歩    ▲同 飛    △8六歩
▲同 歩    △同 飛    ▲3四飛    △3三角    ▲6八玉

 戦型は、横歩取りに進みました。両者得意としているので、ここまでは自然です。

 ……でも、▲6八玉で局面が一気に緊迫します。羽生さんの選択は『勇気流』でした。

 勇気流は横歩取りの中でも最新型で、先手が形を指定して主導権を握ることができます。そのぶん、かなり高い攻めの技術が必要ですけど……だから指してるんですかねぇ?

 羽生さんは勇気流の初期から採用をしていて、今期竜王戦でも村山七段相手に指しています。発案者の佐々木六段も連勝していましたけど、2番目くらいに勝っていると思います。

 もともと、勇気流の前身の青野流も愛用されていましたから……棋風や感覚があっているのかもしれません。

 竜王戦でも、青野流を採用して勝ったことがあるんですよ?(第23期 羽生―小林裕 戦)

 その後、先手苦戦の研究が出て、採用はなくなりましたけど……序盤から攻めっ気100%の羽生さんも、いいものです……♪

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△8五飛 ▲3六歩    △2五飛    ▲2八歩    △8五飛    ▲3七桂   
△8二飛 ▲3八銀    △4二玉    ▲8四歩    △7二銀

 後手には何通りかの応手がありますけど、一番激しい最新研究は△5二玉から△7六飛です。羽生―村山 戦で指された変化で、その後の広瀬―稲葉 戦で先手に修正手順が出ています。両対局者が経験した形ですけど2局とも先手勝ちでしたから、後手の稲葉八段は別の手を選んだようです。

 本譜△8五飛から△2五飛とするのも有力とされる手順で、▲2八歩と打つことになるので先手の攻めを制限しています。狙いは、先手陣の抑え込みです。

 ただ△8五飛と戻って、更に△8二飛と引くので3手損しています。▲2八歩も大きいですけど……損得は難しいですね。

 勇気流の中でも変化のしやすい力戦になって、△7二銀で前例を離れました。30手弱で、未知の世界です。

 △7二銀ではなく△2二銀とした前例はあって、こちらは▲4五桂を先受けした自然な手です。本局で▲4五桂が成立するか、これは大きな問題でしたけど……1時間9分長考して、断念しました。感想戦で指摘されたのは、こんな感じで――

 (変化図)

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(△7二銀以下 
▲4五桂    △8八角成  ▲同 銀    △3三歩    ▲2四飛    △2三歩
▲2五飛    △4四歩    ▲5三桂成  △同 玉    ▲5五飛    △4三玉
▲8五飛    △6四歩)

 先手が少し無理をしているそうです。

 というわけで断念して▲7七桂と跳ねました。青野流ではよく出ていた手で、今度こそ▲4五桂ーから▲6五桂と殺到する狙いです。

 後手は徹底して先手の攻め筋を消しにかかります。

 

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▲7七桂    △4四歩 ▲9六歩    △8六歩    ▲9七角    △4三金   
▲3五飛    △8四飛 ▲8五歩    △8二飛    ▲8六角    △7四歩   
▲7五歩    △同 歩 ▲同 飛    

 すぐの仕掛けは先手も無理なので、2次駒組みですね。端から角をのぞいて、飛車を7筋に回ったあたりはひねり飛車みたいです。若かりし羽生さんが得意としていた形に似ていますけど……玉と角の位置が少し気になります。

 △7三銀~△6四銀で抑え込まれるといけないので、6筋の位を取りました。玉頭だけに怖いですけど、そうは言ってられない局面なんです。

 攻めが繋がるか、受けきりか。ギリギリの駆け引きが続きましたけど、△5四金で流れが一気に変わりました。

 

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 ▲4五歩    △同 歩 ▲4七銀    △8三銀    ▲6七金    △7四歩   
▲3五歩

 △5四金は陣形がバラバラになるかわりに、▲6四歩の捌きを封じながら△8三銀と動く狙いがあります。△7二銀とぶつけて飛車交換になると、先手は△6六飛で王手角取りです。……玉の位置が、マイナスになりますね。

 ですから、先手はここで動くしかありません。4筋を突き捨てて、▲4七銀と出る。……ひと目みて、遅いと思いました。▲5六銀、▲4五銀の2手かけてやっと攻めになる手です。

 右辺の形を崩すと、2手かける間に右も左も戦場になります。その分だけ、自玉も危険になる……。

 後手は狙い通りの△8三銀。次に△7二飛となれば、先手陣は飛車打ちのスキが多すぎます。

 そこで▲6七金と飛車にヒモをつけましたけど、金銀がバラバラで勇気流だったとは思えない陣形です。7筋と8筋から圧力をかけられて、銀を上がる余裕もありません。

 もし、大駒が抑え込まれてしまえば……この将棋は、それでお終りなんです。

 それでも、羽生さんはいつものように▲3五歩と手を渡します。

  局面を直視するのが怖い。そう思えるくらい、後手の圧力はすさまじく見えました。

 

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 △8四歩 ▲3六銀    △8五歩    ▲9七角    △7五歩    ▲同 角   
 △7四銀

 

 △7五歩は「大駒は近づけて受けよ」の手筋で、どちらで取っても銀で攻められます。逃げても△7三角が厳しすぎますね。

 また……今年も、終わってしまうのか。イヤな想像もしてしまいました。それくらい、先手が良い手順を見出せませんでした。

 △7四銀で抑え込みが決まったと、思ったんです。それは……とんでもない思い違いでしたけど。

 

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 ▲4五銀    △7五銀    ▲同 飛    △3三歩

 角取りを手抜いて▲4五銀。角銀交換を甘受して、手番は後手。普通は、後手が優勢としたものです。

 なのに……後手から、ピッタリした手がありません。

 遅いと思った右銀が、狙われそうな▲3七桂が、▲3五歩が、後手を縛っています。▲4三歩のような手もあって、受けきるのが難しいんです。

 △3三歩と受けて、先手は銀と歩の持駒だけ。単純な攻めだと、切れてしまいます。

 ここから、マジックのような攻めが始まりました。

 

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▲8三歩    △9二飛 ▲5四銀    △同 歩    ▲8二金 

 ▲8三歩に△同飛は、▲7二銀や▲5四銀の攻めをみて先手のプラスです。△9二飛とかわして難しく見えますけど……俗手の▲8二金が飛び出しました。

 貴重な金駒を僻地に使うのは、普通はダメな手です。でも、本局では成立していました。▲8一金と取った手が、▲4四桂△4三玉▲5二銀をみているんですね。後手玉の急所をとらえています。そして、5二に打つ銀は角銀交換で手に入れた銀です。

 切れてしまいそうな細い糸が、一本に繋がっていきます。

 

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△9三飛 ▲8一金 △8三飛 ▲7一金    △8四角    ▲7四飛   
△6二金    ▲7二金   △5三金 ▲7三銀 (上図)   
△同 角    ▲同 金    △8一飛   ▲6三金(下図)

 後手も角を使って抵抗しますが、一ヶ所でも破れてしまうと抑え込みは薄さが響いてくるんです。

 俗手の追い打ちで、▲7三銀。どう応じても、後手の大駒を取り返せます。

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 ▲6三金で、飛車成りが確実になりました。8二に打ったはずの金が、活躍しながら6三まで旅をする……あまりにも鮮やかな手順です。

 抑え込まれていた攻め駒が、息を吹き返して輝いています。

 まるで、魔法をみているみたいですねぇ……。

 指しにくい手順でも掘り下げて、正確に指しぬく……羽生さんの棋風は昔から変わりませんけど、この瞬間だけは未だに理解はできません。

 

 だからこそ、強いんです。

 

 

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△同 金 ▲7二飛成  △4一飛    ▲4四桂    △2二玉    ▲3二角   
△3一金 ▲4一角成  △同 金    ▲4三歩

まで99手で先手の勝ち

 先手陣も金銀はバラバラですが、すぐには寄らない形です。急所の▲4四桂がついに入って、後手玉は受けがありません。

 ▲4三歩で、稲葉八段の投了となりました。

 詰めろですけどこの歩は取れないので、指しようがないです。

 

 本局は、羽生将棋の真骨頂ともいえる展開でした。

 羽生マジックという言葉は、まるで「ありえない一手」の意味に使われがちですけど……実際は、少し違います。

 普通は成立しない手でも、深い読みと正確な判断で活路を見いだす。「例外の手順」を拾い上げるのが羽生将棋なんです。ですから「マジック」と言われる一手は、羽生将棋のごく一部分でしかありません。

 うまく表現できないですけど、理解できないからこそ惹かれるのかもしれません。

 

 これで羽生さんは挑戦者決定戦に進みました。相手は1組決勝でも戦った松尾八段です。

 戦いはこれからですし、ここから先も険しい道のりが待っています。

 

 永世称号が、何かを劇的に変えるわけではありません。

 ファン目線の勝手な思いということも分かってます。

 

 でも……好きな人を応援するのに、理由なんていりません。

 だから、こうして追いかけ続けて、勝ってほしいと……願いたくなるんです。

 きっとこの気持ちが消えることは、ないのでしょう。

 

 頂点に立つ、その瞬間まで……ずっと。

 

 

 

(了)

乃々と輝子の動画解説  机の下からお送りしました

 

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輝子 や、やあ……星輝子、だよ。

乃々 もりくぼですけど……。

 

輝子 今日は、私たちの出番だそうだ。

乃々 どうしてもりくぼに……帰りたいんですけど……。

輝子 まあ、いいじゃないか。メインのお仕事はもう、終わってるし……。

乃々 うぅ……静かな日々は遠いぃー…。

 

輝子 今回は、動画のお仕事……だね。

乃々 これですけど……。

 

 

www.nicovideo.jp

 

輝子 前回は、お話の元になったエピソードがあったみたいだけど……今回は、そういうのはないみたいだね。

乃々 もりくぼみたいな人が別にいたら、それはそれで驚きます。



輝子 で、将棋の話をしようか。ボノノちゃんとの対局だね。

乃々 これ、説明しようとしたら、キリがないんじゃないですか……?

輝子 そうだけど、話してばかりだったからな……。


・序盤

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輝子 序盤は、普通に進んだな。

乃々 これは普通なんでしょうか……?

輝子 前回出てた菜々さんは、苦笑してたね。

乃々 『ナナでも風車は久しぶりに見ましたよ!』って……どこまで知ってるんでしょう?

輝子 それで、角を引いて……飛車を回ったのがポイントだな。

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乃々 そうなんですか?

輝子 うん。こうなるとさ、後手は右玉みたい……だよね?

乃々 最初から右玉なら、先手はこの形にしませんけど……1歩交換されてますし。

輝子 ちょっと、得してるかも……と思って。最近、穴熊に右玉で勝つ将棋、多いだろ?

乃々 それは角換わりぃー…。

輝子 8筋も、居飛穴の弱点だからな。飛車と角が睨んでて、けっこう厳しいんだ。

乃々 そうですね……もりくぼも、ジリジリと上から押されました。

輝子 どこかで、端も突き捨てたかったけどな……タイミングは、難しい……。

 

・中盤

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輝子 ボノノちゃんが仕掛けて、中盤だな。

乃々 千日手は損なので……しょうがないです。でも、簡単には決まらないぃー…。

輝子 ゴチャゴチャした戦い……こっちは、反撃する気満々だけどね。

乃々 玉から遠いところを攻めるので、効率がわるいです。継ぎ歩攻めが、地味に痛いぃー…。

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輝子 穴熊だと余計に……厳しいよ。

乃々 もし、別の囲いだったら……どうするんですか?

輝子 うーん……そのとき考えるよ。中飛車は力戦も多いから、ね。

乃々 銀冠……とか?

輝子 たぶん、銀の頭を攻めると厳しいんじゃないか……?

 

 ・終盤

輝子 終盤は、動画でもボノノちゃんが説明してたな。

乃々 あれ、変化のごく一部分なんですけど……本当に多いんですけど……。

輝子 風車の終盤は、本当に難しいよ……ふふ。

乃々 難解ぃー…。

輝子 全部は無理だから、最後のアレだけ、ちゃんと説明しようか。

乃々 はい……最終盤、なんですけど

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乃々 後手玉は打ち歩詰め、先手玉は必至が掛かります。

輝子 だから、私は勝ちだと読んでたわけだな。

乃々 ……でも、ここで▲7六角成という手があったんです。これ自体は大した受けになってませんけど、必至が掛かったあと……

 

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(△2五玉以下、▲7六角成△5九飛▲8八金△7九金▲5八馬)

乃々 ▲5八馬が、王手で入ります。

輝子 王手は最優先だから……取るしかないな。△同飛成。

乃々 そこで、▲7八金と取ると……今度は、後手玉が必至になってるんです。

輝子 先手は詰まなくて、後手は▲2六銀と▲3六銀が受からないな……。

乃々 先手玉に詰みはなくて、速度が逆転。だから、終局したんですね。

 

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輝子 私のどこが悪かったのか……これ、結構前の話になるよね?

乃々 はい。この局面、実は▲4五歩が無いと後手から△4六飛という返し技があるんです。

 

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乃々 これで詰めろがほどけています。だから、もっと前に……

乃々 △4四玉ではなく△4五玉と逃げておくと、この変化にはなりません。

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乃々ここから▲4六銀△3六玉……と進むと、▲4五歩を打たない変化になります。

輝子 つまり、▲4五歩は先手が得してたのか。20手くらい前の話だ…な。

乃々 ……もちろん、別の手順も読まないとですけど。


乃々 動画で、もりくぼの読みと進行した手順が微妙に違うのは、1歩の差が大きいです……。

 

輝子 お互い、変化はできるからな。難しすぎて、結論は分からないけど。

乃々 81マスの海を、ぷかぷかうかんでます……動けるのは、ほんの少しだけ。

輝子  ……乃々ちゃん、観戦記とか書けそうだな。

乃々 なんでお仕事増やそうとするんですか……むーりぃー…。

 


輝子 すごく駆け足で話しちゃったけど、他にもいろんな攻防があったね。

乃々 対局だけじゃなくて、お話も……いろいろありましたけど……。

輝子 あんまり、私たちがどうこう言うことじゃないかな。

乃々 どうすればいいとか、答えが出る話じゃないので……。観てくれたら、それだけで嬉しい……かも。



輝子 今回は、ここまで。お相手は、星輝子と

乃々 森久保乃々でした……バイバイ。

 

 

 

(了)

志希と美波の将棋研究  横歩3年の患い 2

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  ねぇ、志希

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志希 んにゃ?

  さっき美波から、書類を渡されたのだけど……貴方、何かしたの?

志希 んー?何かしたと問われたら、『した』が正解になるけど――

  具体的に。

志希 にゃはー、そうだよねー。強いて言うなら……研究?

  ……的を射ないのはいつものことだから、ここまでにしておくけど。書類、ここに置くわよ?

志希 ありがとねー。

  まったく……どんなやり取りをすれば、こんなタイトルができるのかしら。

志希 …………?

 

ゴソゴソ

パラッ

 

志希 ………………。

志希 志希ちゃん、ちょっと失踪してきまーす。

  ……宣言されても困るのだけど。

志希 んー、黙って出ていった方がよかった?

  そうじゃなくて……もう。止めても聞かないんでしょう?

志希 ま、そうなるねー。じゃ、行ってきまーす!

志希 美波ちゃんの匂いは……こっちだ―♪

 

  ………………。

  何がどうなってるのよ……。

 

レポート 

横歩取り△3三角急戦の成否と改善策について

 

先行研究

志希と美波の将棋研究 横歩3年の患い - とある事務所の将棋紀行

 

 

志希 美波ちゃーん!

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美波 へ?……志希ちゃん!?どうしてここに?

志希 どうしてって……あの内容渡されて、じっとできるわけないじゃない!

美波 志希ちゃんの手紙のお返し、みたいなつもりだったんだけど……

志希 で、変化どうなってるの?そもそも全部成立してるか確認させてよ!

美波 ちょ、ちょっと待って、順を追っていかないと――

志希 じゃあ追っていこう!にゃふふ~、楽しみだな~♪

美波 …………もう。

(~盤と駒準備中~)

美波 じゃあ、始めるね。よろしくお願いします。

志希 よろしく~。……で、どこから説明してくれるの?

美波 ――まず、前回の主なテーマは△3三角急戦に対して、▲7七角と打つ形の成否だよね?

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(△3三角急戦。これを先手はどう受けるのか)

志希 そうだねー。△3八歩で、変化は多いけど後手良しじゃないかって話。

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(△3三角以下▲7七角△同角成▲同桂△8九角▲8七銀△同飛成▲同金△6七角成▲3六飛△3八歩
この先の変化と見解は前回を参照のこと)


美波 それで最終的に、△3三角に対して▲7七桂から持久戦にして先手良し、が志希ちゃんの結論。

志希 そ。一方的に角を手放して、歩の形も悪い。勝敗に直結はしないけど、後手を持ちたいとは思えない。でしょ?

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(▲7七桂以下△7六飛▲8四飛△8二歩▲2七歩△7二金▲4八玉△5二玉▲3二玉が一例。
力戦だが、既に先手の模様が良い)


美波
 うん。△7七同角成▲同銀△8九飛成も、▲6九角で受かってるしね。

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志希 ……覆る余地はないよね?

美波 うん、私もこれは正しいと思う。でも、ちょっと考えてることがあって――


美波 ▲7七桂型って、▲8四飛と回られるのが不満でしょう?それを消せれば、難しくなるかなって。だから、△3三角に替えて△4四角ならどうかと思ったの。

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志希 ……△3八歩を打たずに?

美波 打たずに。△3八歩▲同銀△4四角はよく知られてる手順だけど、これだと金銀の連結がいい上に後手が歩切れになる変化があるから……上手くいかないと思う。

志希 歩を効かせない方が得……?ここからは未知の世界だね。

美波 まず、▲7七角は△同角成で研究した形に合流するね。これは後手良し。

志希 そこは変化の余地がないねー。

美波 問題は▲7七桂のときなんだけど、角が4四だから△3三桂って跳べるかなって。

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志希 あ、そっかー!▲7五角とかの変化も消えてるもんね。一回、玉を上がるのが自然かにゃ?▲6八玉とか。

美波 そこで△7六飛と回って……

志希 △2六飛があるから、2筋回るくらいかー。△2三歩に、3四か2八?

美波 どっちもあると思う。△3四飛ならこんな感じで……

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(▲7七桂以下△3三桂▲6八玉△7六飛▲2四飛△2三歩▲3四飛△2六飛▲2八歩△7二金)

美波 ▲2八飛と引いたら、こんな感じが一例かな。

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(▲3四飛に換えて▲2八飛 以下△7二金▲8七銀△7五飛)

 

美波 どっちも一例だから、お互い変化はできると思うけど……。

 ………………。

志希 力戦だねー。

美波 そうだね。角は手放したけど、筋違いじゃないし、よく効いてるし……これを咎め切るのは大変かも。

志希 だってこれ、歩の損得なくなってるもん。差は生角だけかー。
……少なくとも「先手勝ち」に繋げられる局面じゃないね。手が広すぎる。

美波 「後手良し」じゃないとも思うけどね。これまでの▲7七桂に対する変化よりは、得だと思う。

 
~しばし沈黙~

志希 ……そもそも、これ以外の可能性はないの?

美波 うん?

志希 ほら、△4四に角打ってる弊害で他の変化が……▲8七歩は?

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美波 えっと、確か△7六飛▲7七銀で……

志希 △2六飛には▲1五角が王手飛車ね。

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(次の▲4四飛が受からず先手良し)


美波
 だから▲7七銀には△7四飛と引くけれど、これが△7七角成~△3四飛の先手。

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(次に△7七角成の王手から△3四飛で先手の飛車を取れる)

志希 ▲2四飛も無効だから……▲3六飛と引く。以下は何となくこんな感じで――

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(▲8七歩以下 △7六飛▲7七銀△7四飛▲3六飛△3三桂▲8六飛△8二歩▲5八玉△6二玉▲3八金△7二玉▲4八銀△5四歩 が一例。後手の角が2六の地点を抑えている。この後、持久戦模様なら陣形整備で堅くすることも可能)

美波 先手の飛車が、2筋に戻れないね。角が遊ぶことはなさそうかな。

志希 やっぱり、△3三角▲7七桂の展開よりは後手がやれそうか。
……そっかー、こんな手順があるんだねー。

美波 私も漠然と「横歩急戦は先手良し」とばかり思ってて、調べてみたらとっても難しくて……驚いちゃった。

志希 後手が良くなる変化は色々あるのに、一番悪い変化がこの力戦だったら……これはすごいことだよ。

美波 うん。難しいけど、勇気流や青野流よりも先に形を決められるのは大きいかもしれないね。


志希 いやー、流石というか……美波ちゃん面白いよ。

美波 面白い?

志希 こんな変化を思いついて徹底的に掘り下げようとする人なんか、全然いないもん!

美波 そうなの?

志希 そりゃねー。普通、実戦に出る形や最新型をみんな研究するものでしょ?どこかでテキトーに読みを打ち切って、忘れちゃうのが自然だよ。キッカケはアタシだったけどさ、これは予想以上だねー。

美波 そんな、私はただ……挑戦するなら徹底的にと思っただけで……

志希 …………。(奏ちゃんが『スパルタ』って言ってた理由が分かった気がするにゃー。この子、一度始めたら限度がないんだ)

美波 でも、これ以上の結論を出すのは……もう難しいかな。研究できる斬り合いじゃなくて「強い方が勝つ」って将棋になりそうだからね。

志希 十分すぎる収穫だと思うけどねー。それに、楽しかったし。

美波 私も、いろいろ勉強になったよ。じゃあ、今回はここまでで……

 

 ありがとうございました!

 

 

志希・美波研究 横歩取り△3三角急戦 見解

 

△3三角に替えて△4四角で

・▲7七角は△同角成で後手良し

・▲7七桂は△3三桂以下力戦

・▲8七歩は△7六飛▲7七銀△7四飛で力戦

 

 

おまけ

志希 美波ちゃん、今度さ、研究会しない?面白そうだからさー。

美波 いいけど……スケジュール、どこなら空いてるの?

志希 んー、アタシはいくらでも何とかできるからねー。美波ちゃんは?

美波 こんな感じだけど……

志希 どれどれ~?……え?

~~スケジュール帳には分単位で予定がビッシリと書きこまれていた~~

志希 …………。

美波 このあたりなら時間とれると思うけど……って、志希ちゃん?

 

志希 (……『シャイニングスパルタ』って、奏ちゃんの言う通りだったなぁ)

 

 

(了)

 

志希と美波の将棋研究  横歩3年の患い

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志希 にゃっほー、美波ちゃん。ちょっといーい?

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美波 あれ、志希ちゃん。珍しいね、何か用事かな?

志希 んー、最近さ、美波ちゃんが講義やってるって聞いたんだよねー。

美波 講義というか、アーニャちゃんの気になったところを教えてるだけだよ?

志希 じゃあさ、アタシが気になってる所も教えてよ、ミナミ先生!

美波 え!? 私に、志希ちゃんの満足のいく回答ができるとは思えないけど……。

志希 ダイジョーブだって。別に学会で質疑応答をしてくれってわけじゃないんだからさ!

美波 例えがよく分からないんだけど……。

志希 アー、アー……ンンッ!

『ミナミ、ダメ……ですか?』

美波 ……それ、アーニャちゃんの真似?

志希 にゃは~、これならイケると思ったんだけどな~

美波 私を何だと思ってるの……

志希 ん?奏ちゃんや美嘉ちゃん以上の苦労人。

美波 (苦労かけてる自覚はあるんだ……)

 

※結局、話を聞くことになりました。

 

志希 最近さ、横歩取りの話してたよね。

美波 うん。最新型の勇気流とか横歩の歴史とか、いろいろね。

志希 その成立条件の話だけど「▲3四飛の瞬間に後手が動くのは上手くいかない」から△3三角戦法になるんでしょ?

美波 そうだね、後手が急戦に出る手段は色々あるけれど、「先手わずかに指せる」って見解だから△3三角から持久戦に――


志希 そこ!その前提条件、本当に正しいのかな?って話。


美波 ……どういうこと?

志希 この局面だけどさ、単純に仕掛ける手があるじゃない。

▲3四飛に △8八角成▲同銀△3三角

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美波 『△3三角急戦』だね。前に菜々さんが説明してたかな。

志希 で、ここで▲7七角と打って――――

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志希 △同角成▲同桂△8九角▲8七銀△同飛成▲同金△6七角成に、▲3六飛と引いて先手良し……だよね?

美波 そう……だったと思うけど。

志希 ここでさ、△3八歩と打つとどうなるの?

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美波 ……へ?

志希 これ取ると詰むよね。もっと前に利かせる変化だと、この局面にならないことは知ってるけどさ、コロンブスの卵で今打つとどうなるのかにゃ~?

美波 このタイミングでは入らないと思ってたけど。▲5八金?

志希 △4五馬

美波 ……▲3八銀

志希 △3六馬▲同歩△8九飛▲6九歩△8七飛成▲9六角△7七竜▲6三角成△4二金▲2三角△3二銀打▲5六角成△6六桂…………

 

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志希 これ、後手寄るの?

美波 ……これは、後手良いと思う。でも▲9六角じゃなくて▲6五桂が先じゃない?

志希 あー、角のダイヤゴナルより速いか。これは……△6二銀で。

 

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美波 手が見えない?

志希 でしょー?変化の余地少ないし、大駒三枚だけで歩も利かないし、後手は守りにいくらでも数足せるし。アタシはこの局面だけみて、後手持ちたいよ。

 

美波 ……急所を攻めるなら▲6四歩かな。

志希 美波ちゃん、それ反則。

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美波 え?……あ!

志希 へ~、美波ちゃんもこんな凡ミスするんだ~♪

美波 …………。
志希 ま、一手詰めを見逃して頓死しちゃった大棋士もいるし、ウッカリはよくあることだよね~。

 

美波 …………………▲4八玉

志希 ん、なぁに?

美波 ▲6九歩に替えて▲4八玉なら、6筋に歩が効くよね?もうちょっと、調べてみましょう(ニコッ)

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志希 そうだねー、やってみよっか。

(……あれ、美波ちゃん目が笑ってない?)

 

美波 ▲6四歩が入る展開は持ち歩が活きるし、飛角を打ち込むスペースができるよね。

志希 △2七歩くらいで▲5五角△3九銀▲3七玉△2八歩成

 

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志希 これも、先手良しとはならないねー

美波 …………。

 

美波 ……▲1五角を決めると

志希 ……?

美波 △3八歩の瞬間に、▲1五角の王手。利かし得にならない?

志希 わー、また難しい手をひねり出すねぇ。

 

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志希 あー、なるほど。これは先手は得……?手が広すぎてすぐにはワカラナイ?

 

美波 先手から変化できる手は、これぐらいしかなさそうだけど……志希ちゃん、どう?

志希 (あ、いつもの美波ちゃんにもどった)

 

 

 

志希 んー、課題局面をいくつか精査しないといけないから、今日はこのくらいかにゃー。


でもここまでくるとさ、「先手良し」がどうこう……とかじゃなくて、強い方が勝つ将棋だよね。

美波 そうだね。いつもは何となくで進めていたけれど、ここまで難しいとは思ってなかったかな。

志希 「横歩3年の患い」とは、よく言ったものだねー。こんな変化の枝葉末節まで知ろうとする人は実際は少ないだろうし。それでいいと思うけど。

美波 ……どういうこと?

志希だってこの形、全く指されないもん。なんとなく結論だけ知ってて、お互いがそこに挑まなければ覚える優先度は限りなく低い。
先人の積み重ねの上に、当たり前のように立ってるのはどこの世界も一緒でしょ。
その足元を構成する一つ一つを疑いながら精査して、解明して、残していくのは……一部の学者やプロ、変わり者の仕事かにゃー。

美波 もうちょっと、明快に答えが出せたらいいんだけどね。

志希 んー、面白かったからいいんじゃない?調べるべきポイントも見えてきたし、ここでちょっと話をしたくらいで解決するような問題じゃないって分かっただけでも収穫だしね。

…………珍しい、美波ちゃんのウッカリも見れたしね~。

 

美波 ……もうっ!

 

 

(後日)

 

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アナスタシア ミナミ、さっきシキからピスィモー…手紙、渡されましたね

 

美波 え?何だろう……

 

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

美波ちゃんへ

 

▲1五角以下

△6二玉▲3八銀△3六馬▲同歩△8九飛▲4八玉△3九銀▲3七玉△8七飛成▲2二歩△2五金

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▲1五角が負担になって後手良し

 

現時点での結論

▲7七角以降の展開は後手良し。

19手目▲7七角に換えて▲7七桂で、持久戦調の将棋ながら先手がポイントをあげる将棋になりそう。ここか具体的に形勢に差を広げる方法や、明快な先手勝ちへの道筋はつけられない。

 

 ▲7七桂以下
△7六飛▲8四飛△8二歩▲2七歩△5二玉▲4八玉△7二金▲3八玉(一例)

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追伸

美波ちゃん面白いからさー、また今度あそぼ~♪

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

美波 ………………。

アナスタシア ミナミ、何が書いてありましたか?

美波 えっとね……

 

美波 中途半端に踏み込んじゃいけない世界……かな。

 

 

 

(了)

新田美波の定跡解説  勇気流から広がる景色

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「ミナミ、ドーヴラエ ウートラ!」

…………。

「ミナミ?」

 え、アーニャちゃん!?ごめんね、ちょっと集中してて。

「ダイジョブ、ですね。でも、ミナミが悩んでるところ、珍しいです」

 うん。ある形について質問されたんだけど、自分でも理解できてるか不安があって……。

「シト?ミナミが分からない形、ですか?」

 これなんだけど……

 

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「ンー、不思議な形ですね」

『勇気流』って言われてるんだけどね、難しい変化が多くて。

「勇気…ですか?アーニャも気になります」

 そうだよね……中途半端なままなのは、よくないかな。

 

 アーニャちゃん、スケジュール空いてないかプロデューサーさんに聞いてみようか。

「!ミナミのレクツゥイア……やりますか?」

 うん。挑戦してみる。まずは実戦例を集めて……

「どのくらい、集めますか?」

 えーとね……

 

 たくさん!

 

~数週間後~(事務所の一室にて)

 

 それでは講義『勇気流について』始めます。よろしくお願いします。

「よろしくお願いします。ミナミのレクツゥイア、久しぶりですね?」

 そうだね、前は…クリスマスだったかな?藤井システムがテーマだったよね。

「ダー、ミナミが、カツラを飛ばしてました!」

……アーニャちゃん、それは桂馬だよ。

 

 最初に、勇気流って何の戦型か分かるかな?

「ンー、横歩取り…ですね?」

 そうだね、▲3四飛と横に動いて歩を取るから『横歩取り』。このあたりは、前にも触れたことがあったかな。

「ダー。でも、先手の飛車の位置がオカシイです。そこはアパースノスチ…キケンだと教わりました」

 この戦法の一番の特徴はそこかな。飛車がここにいる理由や主張はもちろんあるから、順を追って説明していくね。

 

 

・青野流と勇気流(指された背景)

 

 もともと勇気流が指される前によく似た形があったのね。『青野流』っていうんだけど……

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「アー、とてもそっくり…ですね」

 横歩取りって普通『先手の1歩得 対 後手の手得』って構図でしょう?

 先手は1歩取るかわりに、▲3六飛―▲2六飛と手数をかけて戻らないといけなかったわけ。後手に主導権がある将棋になるから、しばらく面倒を見ないといけないの。

「ダー。後手が先に攻める将棋だと、教わりました」

 その通り……なんだけど、やっぱり先手としては面白くないわけ。だから「飛車を戻さないで▲3四飛のまま戦う」ことにすれば、1歩得したまま先攻できるのではないか。
 これが青野流の狙い。ある意味欲張りな作戦かな。

「パニャートナ、でも…最近みたことないですね?」

 攻めが続くことは分かってきたんだけど、後手が攻め合いを選んだときが大変で。
 具体的には、△7六飛って手があるのね。後手も横歩を取る手なんだけど……

「どちらも、似た形です」

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 次の狙いは△8八角成で、▲同銀は△7八飛成、▲同金は△7九飛成で将棋が終わっちゃう。
 横歩取りではよく出る筋だから覚えておくといいかな。
 対して後手は△3三角と△3一銀の形だから、飛車を成られる心配はないのね。

「パニャートナ、『損して得とれ』ですか?亜子が言ってました」

ことわざ通りかは難しいけど、形にもメリットとデメリットってあるから。

 お互いに歩の損得がなくなって、手番は先手。でも、後手の低い形が攻め合いと相性がいいんだよね。
 ここで△8八角成を受ける▲7七角と▲7七桂という手の両方が、先手苦戦気味とみられているかな。だから、この形はだんだんと指されなくなっていったの。

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(▲7七角に対する模範得演技。両取りが受からないので先手も▲2二歩から攻め合いにするが、△3三桂ー△4五桂の応援が効く)

これが、勇気流が指される前の話だね。

 

・勇気流

 

 さて、勇気流なんだけど……大きな構想や狙いは青野流とほぼ同じ。
でも▲5八玉に換えて▲6八玉と上がるのが骨子となる一手なの。

「ンー、1マス、違うだけですね?」

 重要なのは、さっきの青野流でみた△7六飛の局面ね。▲5八玉型だと△8八角成の先手だったけど、▲6八玉型だと……

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「プリクラースナ、玉が金を守ってます!」

 これなら△7六飛が先手にならないし、むしろ後手の飛車をいじめることができそうだね。
だから勇気流は、青野流の弱点を改善した作戦…ともとれるかな。

 佐々木勇気五段が指し始めて、先手をもって連戦連勝。棋王戦では佐藤天彦名人を勇気流で破って、挑戦者決定戦まで勝ちあがったの。この活躍が注目を集めるようになったきっかけかな。

『勇気流』って名前が広まっていくのもこの頃だから……去年の12月くらいだね。とっても新しい戦法だよ。

 

「ミナミ、どうして勇気流は、これまで指されませんでしたか?」

 んー、確かに▲6八玉でプラスになる部分はあるんだけど、横歩取りって8筋が戦場になるでしょう?わざわざ序盤に近づこうとする発想がなかったの。

 あと青野流は攻め好きのスペシャリストしか採用しない戦法だったから、青野流が苦戦しても▲3六飛と引く普通の横歩取り指せばいい……って理由はあったかも。

「この形がトクベツ…ですか」

 でも、指されてみると後手をもって咎めるのが難しかったんだよね。まだまだ結論が出ていない部分もあるけど、具体例をみていこうか。

「ダー!」

 

 ▲6八玉で後手の手番だけど、指し手は何通りかに分かれるの。ホワイトボートにまとめて書いておくね。

 

~ 勇気流 後手の応手 ~


・△2二角成―△2七角

……▲4九金が浮いているために生じた手。勇気流を咎めにいく

△2二銀―△8二飛(順不同)

……先手の攻めを抑える狙い。8筋からの反撃も含み

△8五飛

……次に△2五飛▲2八歩の手順を狙う。△8五飛と戻ることが多く手損が気になる

△7六飛
……それでも横歩を取る。実戦例は少ない。

 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
 このぐらいかな。後手は△8六飛をどこかに動かすのだけど、その位置によって展開が決まってくるね。

「ミナミ、青野流だと△5二玉が…優秀でした。ここで指してはダメ、ですか?」

 ダメ……かは難しいけれど、△5二玉型って右辺の守りを放棄して△7六飛の攻め合いが狙いだから、▲6八玉型相手に指すと損になる変化が多いかな。

 

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(後手から早い仕掛けが難しく、△2二銀には▲4五桂がある)

 

 すぐに△7六飛と取った実戦も△4一玉型だし、攻め合いというよりは他と同じく先手を抑える方針だったね。実戦例は少ないし、上手くいったかは微妙だったから……△7六飛と取りにいく手は、あまりオススメできないかな。

 

・△8八角成―△2七角

 

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 角交換から△2七角が一番先に考えないといけない変化だね。▲6八玉型だから生じた手で、4九の金が浮いてるのを咎めにいったわけ。

「金がジョールカ…浮きますか?」

 その意味じゃなくて、「誰にも守られていない駒」ってこと。青野流は玉が5八にいるから△2七角で金取りにはならないでしょう?

「キング…玉が真ん中にいると、バランスがいいですね」

これが後手良しだと、勇気流は成立しないって結論が出ちゃうから…大事な変化だね。

「先手は、どうすればいいですか?」

▲3八銀△4五角成として馬は作られちゃうんだけど、▲2四飛が巧い切り返しになるの。

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「……△2三歩と打つと?」

 ▲7七角が両取りで、『△4五角急戦』みたいな変化になるかな。そのときに先手の▲6八玉や▲3八銀が従来の定跡よりも得になってるから、これは先手良しだね。

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 △1二馬と引いた実戦はあるけど▲7五角が追撃の一手。以下は先手は馬を好位置に引けるから、働きの差が大きいかな。結果も、先手の攻めが続いて勝ってるね。

 

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「馬を、ウマく使うんですね!」

 ……アーニャちゃん、また楓さんに教わったの?

「ダー!日本のジョーク、たくさんありました!」

(楓さんのダジャレはジョークなのかな…?)


 今のところ、勇気流に対して「後手がいっぺんに潰しにいく変化は上手くいかない」って感じかな。だから後手の主な方針は「抑え込み」になるのね。

 先手の攻め駒は飛車、角、桂、歩だけになりがちだから、隙を作らなければ飛車をイジメたり8筋から反撃してよくできるだろう……って構想。

 対して先手は攻めを繋げる必要があるのだけど、佐々木五段曰く「相手の手に乗って捌く」振り飛車みたいな感覚がいるみたいだね。

「相手の手に?…どういうことでしょう」

 

・△2二銀―△8二飛

 

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 例えば△2二銀―△8二飛は一番典型的な筋で、青野流でも抑え込む目的で一時期指されていたの。

 先手は▲3七桂と一番強気で対応するのね。▲8三歩、▲8四歩と連打して一手かせいで、青野流の場合は先手の攻めが成功するのだけど……この局面、少し振り飛車の攻めみたいでしょう?左右は違うけどね。

「パニャートナ、なんとなく…似ていますね」

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(青野流の変化。▲3七桂以下△8八角成▲同銀△3三銀▲8三歩△同飛▲8四歩△8二飛▲3五飛△8四飛▲6六角△8二飛▲4五桂  飛角桂がめいいっぱい働いている)

 勇気流だと玉の位置の差でこの変化にはならないけれど、やっぱり「捌く」ことが重要になるわけ。恐れず、強気で前に出ていく将棋になるね。

 成功例としては、羽生―深浦 戦があるかな。▲7五角から馬を作って、じっと▲5六馬が好手順。この後は竜も作って、二枚の圧力で攻め勝つの。

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(上の手順とほぼ同じで、▲6六角に換えて▲7五角。この馬を働かせていく)

「ハラショー!ミナミが押し倒しました!」

 アーニャちゃん、「押しつぶす」と「攻め倒す」を混ぜちゃいけません!

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 (竜と馬で盤上を制圧、と金作りが受からず先手優勢)


 もっとも、一直線の研究勝負になっちゃう形だから……その後は先手が避けていることも多いね。水面下で「先手不利」の結論が出ていてもおかしくないと思う。

「ンー、難しいです……」

 その後は▲3五飛から攻めを組み立てるのが主流になっているね。銀を上がって、桂を跳ねて……

 

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「ニチェボー、△2八角と打たれてしまいますね?」

 うん。そう指した実戦もあるし、それが勇気流の威力を見せつけた棋王戦の佐々木勇ー佐藤天 戦だね。対策はちゃんとあって、先手はそこで▲3二飛成と切る!

「シト!?」

そして▲1八金と打つの。これで角が詰んでるよね。

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「パニャートナ。とても激しい手、です」

 △3七角成▲同銀とした局面は駒の損得はほとんどないし、後手陣は薄くなっている。この後は▲2四歩から拠点を作って攻めていけるし、先手陣は飛車打ちに強いから。

 この▲4九金・▲3八銀型の優秀性が、最近は見直されてきている気がするね。

「これ、美濃の形…ですね?」

 うん。一手で完成する形だし、1段金で守りも堅い。大駒の打ち込みも少ないし、いざとなったら第二の囲いとして逃げ込む余地もある。

 後手横歩△7二銀型も似たような意味があるし、角換わり▲4五桂速攻もこの形だね。

「美濃の形はクラシーヴィ…美しいです。」

 弱点もあるけど、汎用性が高い形なのは間違いないね。
 ただ、攻めに使う右銀まで囲いになっちゃうから……攻めを続けることが大変っていうのは、どの展開にも共通してるかな。

 

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戻って△8二飛の対策だけど、8筋に歩を打たないで、逆に攻めの起点にする指し方もあるよ。山崎流の応用みたい……って言っても分からないかな。菜々さんだったら喜んでくれそうだけどね。

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(上図以下△同飛▲2三歩△同銀▲同飛成△同金▲5六角 で両取りがかかった。△8七歩成はあるが、先手は右辺に逃げられる)

  △8六歩の垂らしは怖いけど、勇気流だと▲8四歩や▲8五歩で受かってることも多いから、覚えておいて損はないかも。他には△8七歩成を許しても攻め合いにして、▲5八玉から早逃げした実戦もあるね。

 新しい対局だと棋聖戦挑戦者決定戦 糸谷ー斎藤 戦で、▲2五飛から飛車を引いて2筋攻めを見せる構想も指されているし……

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(2筋に拠点をつくる。この後、角交換から▲2三角と打つ展開に)

 あの手この手で、攻めのきっかけを作りにいくのが勇気流の特徴だね。

 

・△8五飛

 

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 △8五飛と引く手も有力な対策だよ。▲3六歩に△2五飛▲2八歩と打たせるのが狙い。こうすれば先手が2筋に歩を使って攻めることができなくなるから。

「先手の攻めが、制限されますね」

 でも歩を打たせた以上の働きを2筋でするのは難しいから、△8五飛と戻ることになるの。この飛車移動で2手かかるわけ。

 抑え込むために△8二飛とさらに引いて、△4四歩とゆっくり指そうとした実戦が佐々木勇気中座真 戦なんだけど…

 

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 ▲4六歩が攻めを継続する一手。▲4五歩から飛車交換に成功して、これで抑え込まれる心配がなくなったの。先手の作戦勝ちになって、後はゆっくり2筋の歩を伸ばして快勝!

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(後手は8筋から反撃を試みるも、▲8四歩~▲4五歩~▲4四飛で飛車交換に成功。こうなると、先手陣のスキのなさが活きてくる)

「このファイル…筋を突くの、珍しいです」

 この▲4六歩を突きやすいのも勇気流の長所かな。▲5八玉型だと玉のコビンを開けちゃうことになるからね。

 後手としては、先手に捌く余地を与えない指し回しが必要なんだけど……。先手の駒が伸びてきちゃうから、とても神経を使う展開になりそうだね。


 勇気流は横歩取りの中でも『先手に選択肢がある』戦法だから、横歩取りに誘導した後手に対して主導権を渡さないで済む点が魅力かな。

 他の形はどうしても、後手の飛車の位置や囲い、端歩の位置をみながら先手が細かく対応して受けていく将棋になるからね。

「ヴァチモア…どうして勇気流は、たくさん指されないのですか?」

 いままで話してきたように佐々木五段は先手をもって高勝率を挙げているのだけど……他の棋士はまちまちなんだよね。

「優秀なのに?」

 先手が攻勢を取ることはできるけど、繋がるかどうかギリギリの攻めをずっと繰り出さないといけないから。
 少しでも緩めば凌がれちゃうし、8筋や5筋の弱点を上手く対処しながら指し回す必要があるの。

 佐々木勇気五段はもともと鋭い攻めが得意な棋風で、この戦型との相性がよかったことが大きいかな。藤井システムを一番指しこなせるのが藤井九段なのと同じようにね。

 

 最新型ゆえに分かってないところも多いけど、それ以外にひとつ、悩ましいのは……

「シト―?悩み、ありますか?」

 新しい形な上に、採用する棋士も実戦例も多くなくて……まとめられた本が出てないの。

「アー、ミナミがまとめてくれましたね!だからダイジョブです!」

 ……これでも、入り口の少しだけしか解説できてないよ。
 手順の組み合わせが多くて力戦調の将棋になるから、そこは好みが分かれる将棋になるね。

 

 

 上手くできたか分からないけど、こんな感じかな。

「ハラショー!1マスの違いで…違った景色、広がってました」

 横歩取りは長年指されてきた戦型。でも、こんな序盤に可能性が眠っていたなんて……みんな、ずっと気がつかなかったの。
 それを形にした佐々木五勇気五段はすごいと思うし、将棋について分かっていることってごく僅かなんだとも思うよ。

「だから、みんな惹かれますね?たくさんの世界を観るのがプリヤートナ…楽しい、です」

 そうだね。分からないから、将棋って面白いんだと思う。

 

 

 今回はここまでにします。ありがとうございました!

「スパシーバ!ありがとうございました、ですね」

 

 

 

 

「そういえば、企画書に別の案が書いてありましたね」

 え、いつも通り教えるんじゃなくて?どんなのだろ……

『山手線のTシャツを着てジェンガをする』

 …………。

「ミナミ、これ、どういうことですか?」

 

 
 ある意味、これも勇気流……かな。

 

 

(了)

 

 

参考対局

 

青野流

第41期棋王戦 第2局 渡辺―佐藤天 戦(16年2月20日)

勇気流(初公式戦)

第10回朝日杯 佐々木勇―瀬川 戦(15年8月18日)

△2七角型

順位戦C級2組 岡崎―瀬川 戦 (17年1月14日)

△2二銀―△8二飛型

第66期王将戦 羽生―深浦 戦(16年10月8日)

第10回朝日杯 佐々木勇―橋本 戦(16年12月10日)

第42期棋王戦 佐々木勇―佐藤天 戦(16年12月9日)

第58期王位戦予選 佐々木勇―中村太 戦(16年12月26日)

第58期王位戦挑決リーグ 佐々木勇―豊島 戦(17年2月24)

第88期棋聖戦 糸谷―斎藤 戦(17年4月25日)

△8五飛型

第65期王座戦 佐々木勇―中座真 戦(16年11月18日)

第75期順位戦 行方―稲葉戦(17年1月11日)

第10回朝日杯 行方―佐藤天 戦(17年1月14日)

△7六飛型

第75期順位戦 行方―広瀬 戦(17年2月1日)

二宮飛鳥と観るセカイ  偶像の再構築

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 やあ、待っていたよ。ようこそ、ボクらの約束の場所へ。

 フフッ、君が思うように、ここはそんな大げさな場所じゃない。電子の連なりが生みだした僅かな空間さ。それ以上でも、それ以下でもないさ。

 でも、そんなことはどうだっていい。大事なのは君がこの空間を見ていること、それだけなのだからね。

 本来なら、こういった仕事はボクではなく他のアイドル達が担当するはずなのだけど…みんな忙しいみたいでね。こうして案内を務めることになったのさ。よろしくお願いするよ。


 さて、今回の内容だが……ボクは解説が上手いわけでも、情熱がこもった観戦記が書けるわけでもない。だから、ボクはボクなりのやり方でこの空間に色をつけるとしよう。

 

 これから語るのは、すでに幕が引かれてしまったセカイ。

 皆の記憶からは少しずつだが風化してしまっている、あのシリーズを振り返ってみようと思う。

 普通は1局ごとに解説するのが筋というものだろうが…、この番勝負に関しては一つの流れで観測してこそ、初めて見えてくるものもあると思うんだ。

 さぁ、そろそろ始めようか。これから観てもらうのは恐ろしく深く、難しく、美しい激闘の記録だよ。

 

 

第60期王座戦 渡辺明王座 対 羽生善治棋聖、王位

 

 もう、5年以上前のことになるのか。皆の記憶が薄れるのもうなずける。

 少しばかり、背景をなぞっておこうか。

 羽生王座が『無敵王座』として君臨し続けたことはあまりにも有名だね。19期連続の在位は、破られるイメージすら湧かない大記録さ。

 ボクが生まれる前から王座だったわけで、その長さは想像することさえも容易じゃない。王座を奪取した相手が福崎文吾九段…と言っても、ピンとくる人は少ないと思うよ。
 うちの事務所でも、よく知ってる人は少ないだろう。川島さんや、菜々さんくらいかな……?それくらい昔の話さ。

 6年連続ストレート防衛、19連勝……途方もない数字と共に、無敵王座・羽生善治という偶像は強固なものになっていた。

 でも、記録はいつか止まるもの…という言葉もまた真理さ。第59期王座戦では渡辺竜王を相手に3連敗で失冠。連勝記録どころか、連覇まで止まってしまったわけだ。
このとき羽生さんは既に40代。春に名人を失冠し、この王座戦で2冠にまで後退した。

「世代交代の波が来ているのではないか」……そんな言葉すら囁かれる事態になっていたね。まぁ星に少し黒が混じっただけで「羽生衰えた」などと言われてしまう人だから、それ自体はさして気にすることではないのだけどね。
そもそも、二冠で「衰えた」とはどこに基準をもって語っているのだろうね?


 ファンからすれば「羽生王座」という肩書はとても大きなもので、その偶像が瓦解した衝撃は非常に大きかったわけさ。

 

 ここまでが第59期王座戦、つまり1年前の話だね。普通ならここでセカイが収束して、新たなセカイが幕を開けるのだろうけれど……彼の場合はその「普通」が通用しなかった。

 王座を失冠した次の期、第60期の挑戦者決定トーナメントを駆け上がったんだよ。
まるで当然のように勝ち進み、挑戦を決め、舞台に戻ってきた。
 一度途切れたはずのセカイが再びつながって、このシリーズがある……というわけさ

 それでは、ボクごときの前置きは終わりにしてセカイを観ようじゃないか。

 

 

第1局 (2012年8月29日)

 

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 振り駒で先手が羽生さんに決まったのだけれど、戦型は後手の急戦矢倉。

 かの竜王戦で新手を出したあの形さ。細かな事は別のセカイだから語らないが、渡辺王座の用意の作戦であったことは間違いない。

 優位を築いたのは羽生さんだったのだけれど、頑強に抵抗する後手に対してミスをしてしまう。そして、勝ったのは渡辺さんだった。

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(ここで▲2二歩成ー▲3二とを利かせてから▲4五銀と出るべきだった。本譜は単に▲4五銀だったから形勢が入れ替わったそうだ)

 これで前期合わせて4連敗。当時は「ストレート負けの悪夢再び…」という嫌な雰囲気もあったみたいだね。

『無敵王座』の偶像はほぼ消えかかった、とも言えるかな。

 (投了図)

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 少しばかり盛り上がりに欠けたまま第2局へと進むのだけど……もし凡局が続くようだったら、ボクはこのシリーズを語ろうとも思わなかっただろうね。

 ここから、セカイが色を変える。

 

 

第2局(2012年9月5日)

 

 このシリーズで名局賞を受賞したのは第4局(千日手、指し直し含む)なのは周知の通りだが、ボクはこの第2局こそがシリーズの白眉だと思っているよ。

 羽生善治その人のセカイが、ここに表れていると感じるんだ。

 ここで負ければカド番になる。先手番を落とした羽生さんは苦しいのではないか。そんな中で始まった第2局だったのだけど、4手目から衝撃が走った。

 羽生さんは飛車を持って……△4二飛。

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 角交換四間飛車。これが後手番になった羽生さんの選択だったわけだ。
 指し手自体はあり得る手だし、単に裏芸……ということならばまだ分かるのだけどね。
 この一手の裏側には、シリーズとはまた違う場所に物語があるんだ。

 王座戦の少し前に、羽生さんは王位戦を戦って防衛していた。
 相手は藤井猛九段。そして挑戦の原動力となった戦法こそが、角交換四間飛車だったというわけさ。(藤井システムも健在だったことも記しておこう)
 王位戦では角交換四間が3局現れたのだけど、羽生さんは全ての対局で作戦負けをしている。
 うち完封負けが1局、完封未遂が1局あった。あの羽生さんがだ。

 その優秀性を嫌というほど感じたであろう羽生さんは防衛を決めてすぐ、この第2局で採用したというわけさ。負ければ後がない大勝負で、ね。
ファンも控室も、序盤から盛り上がったわけを理解ってもらえたと思う。

 でも、ボクこと二宮飛鳥が二宮飛鳥でしかないように、藤井猛藤井猛羽生善治羽生善治でしかない。角交換四間飛車の優秀性は、藤井九段の卓越した序盤感覚があってこそ輝くものだったんだ。

 つまるところ……羽生さんは作戦負けに陥った。

 

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 当時は向かい飛車に振りなおして展開するのが主流だったのだけど、早い段階で△4四歩と突いたのが後手の工夫だね。王位戦でも一局、似たような将棋があったから参考にしたみたいだ。
 しかし先手の陣形に隙がなく、囲い合いになってしまった。

 後手は打開が難しい。対して先手は5筋位取りが秀逸な構想で、手詰まりを打開できる権利がある。

 無理攻めしても負けるだろうし、隙を作れば突破されて負ける。

 希望の光が全く見えないような状況の中、羽生さんは玉を動かした。

△9二玉

 そして…戻した。△8二玉。

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 分かってもらえると思うが、この手に価値はないと言っていい。2手損でしかない。先手はいくらでも陣形を整備して攻勢を取ることができるのに、後手の陣形はそのままだ。自ら動いても負けを早めるから、作戦負けを認めてひたすら玉が往復する。「一人千日手」なんて呼ばれたね。

 陣形を崩さず待つこと7回連続の玉移動。後に△8二玉と戻るから、計8手損だね。 「玉の早逃げ八手の得」なんて古い言葉があるけれど、八手の損が最善とみた感覚は恐ろしいという他ないよ。

 先手も同じように待てば千日手だけど、これで千日手に応じる棋士は……おそらくいないんじゃないかな。穴熊に組み替えて攻撃陣を整え、満を持して開戦した。

 この対局を観測してた誰もが先手大優勢だと思ったよ。少なくとも、対局者以外はね。


 穴熊という囲いは、攻めが続けば無敵だ。なんといっても王手が掛からないのだから詰まされる可能性すら生じない。だからこそ対穴熊側は、「穴熊勝利する条件」を徹底して崩す必要がある。
 ここからの後手の指し回しは穴熊に対する模範演技と言えるだろう。

 自陣角を放って隙を作らず、端攻めで先手玉を薄くする。
 僅かな隙を突いて焦らせ、攻めを誘い、反動で薄くした玉を仕留める。

 要約するとこんな感じだが、これほど現実離れした文章もそうそうないね。誰もがそうやって指せるなら「穴熊の暴力」なんて言葉は生まれないし、そもそもこんなに流行しているわけがないじゃないか。

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(端攻めに対して9六の歩を取った一手だが、これ以降は先手良くなる変化が見つからなかったそうだ。△4三角が端を睨んでいるのも大きいね)

 この企画のために、棋譜を確認したのだけど……改めて見ても、訳が理解からない。

 最善の手をもって応じなければ、一手で崩壊する…そんな綱渡りの将棋を、羽生さんは見事に渡り切った。

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 本局はこのシリーズ……いや、この後の王座戦史にまで、大きな影響を与えた一局じゃないかな。

 ここから、明らかに流れが変わる。


第3局(2012年9月19日)

 第3局は、またしても後手急戦矢倉。まだ先手▲4六銀・3七桂戦法が猛威を振るっていた時期だから、後手が変化するのも理解はできるけどね。

 この将棋は…申し訳ないが、的確に表現する言葉が見つからない。
「中盤すぐに銀桂交換を受け入れて、入手した桂1枚で崩し、攻め勝つ」

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(ここで取った桂を…)

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(ここに設置した。急所という意味なのだろうが…)

 ……これは、将棋なのかい?少なくとも、ボクが識っている将棋とは、何か違うような感覚すらあったよ。

 第2局以降の羽生さんは、一貫して「分からない」んだ。理解することすら許してくれない、まさに羽生マジックだね。いや……種すら見えてこないのだから、マジックという言葉すら相応しくないのか。ボクの語彙にも限界はあるからね……「羽生サイキック」という語を引用させてもらうことにするよ。

 

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 この将棋は構想の段階で勝負がついてしまったようだった。……いや、難しい応酬は確かにあったのだけど、気がついたら勝負がついていた。そんな感じだったよ。

 そしていつの間にか、羽生挑戦者の2連勝。「強い羽生善治」という偶像が、ふたたび形作られようとしていた。

 ゆっくりと静かに、しかし確かな熱を帯びていく中……あの第4局は始まった。

 

 

第4局(2012年10月3日)

 

 ここで羽生さんが勝てば奪取、負ければ最終局にもつれ込む。しかし後手番。

 当時は先手矢倉▲4六銀・3七桂や、角換わり先後同型富岡流といった形が研究されていた頃で、相居飛車は先手が指しやすい展開になりがちだった。横歩取りも△8五飛戦法の対策が充実してきていて……今の△8四飛型が広まるのは、もう少し後のことだからね。

 だからこそ、第2局の4手目△4二飛は指す価値のある手だったわけだが……本局は2手目に作戦が決まった。

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△3二飛

 振り飛車、しかも珍しい2手目△3二飛戦法。
 重要な一局で、どうしてこうも違ったセカイを覗けるのだろうね?

 乱戦含みの手だが、そこは先手の選択だ。堅実な戦いを好む渡辺王座は踏み込まず持久戦模様になった。ノーマル三間飛車と違って角道が通っているから、先手は穴熊を避けて左美濃に。それを見てから後手は角道を止めた。穴熊でなければ景色はかなり異なってくるからね。
 このあたりの応酬も非常に興味深いところなのだけど……ボクよりも相応しい人に任せるべき領域だし、本筋から話が逸れてしまうから先に進むとしよう。

 

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 中盤に入ろうとしているこの局面、実は前例があるんだ。20年以上前に、だけどね。村山聖河口俊彦 戦……この名前だけでも、どれだけ昔なのかを理解ってもらえるかもしれない。余談だが、本局の観戦記を書いていたのは河口俊彦七段(当時)だった。戦型は偶然だろうけど……巡りあわせとは不思議なものだね。

 もちろん当時は2手目△3二飛戦法はなかった。別の序盤からこの局面に合流したんだよ。ノーマル四間飛車左美濃の定跡らしいが、一部の振り飛車党や菜々さんだったら詳しいかもしれないね。
ボクは詳しくないけど、藤井システムによって姿を消した局面らしい。

 後手は2筋に振り直したから四間と三間の差異が消失したわけだが……最前線の将棋がいつの間にか昔の形に合流するというのは、なかなか興味深い話だと思わないかい?

 まるでメビウスの輪の中にいるようだ。実のところ将棋がどんな構造をしているのかは、人間には理解できない次元の話なのだろうがね。

 この将棋は盤の左側……つまり玉頭戦になることが多いみたいだ。互いに難解な駆け引きの応酬が続くのだけど、先手玉の方が堅い。控室の検討は次第に「先手良し」へ傾き、最終盤に突入した。

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 様々な場で語られたこの局面、先手は手数計算がしやすいんだ。後手玉は▲8三飛からの詰めろ。先手玉は詰めろでないどころか、王手を掛けてしのぐ空間すらない。だから先手が負ける要素がないとみられていたんだ。

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 そんな中、4分の考慮で指されたのが△6六銀。一手で示せる「羽生マジック」としては、トップクラスに有名だろうね。それだけの勝負手であり、絶妙手だ。

 後手玉は▲6六桂と打って詰む変化だから、その地点をあらかじめ塞いでおく意味がある。そして、△8八角成▲同玉△7七銀成からの詰めろにもなっている。いわゆる「詰めろ逃れの詰めろ」なのだけど、互いの玉から離れた位置、しかも歩の頭に持ち駒の銀を打つ…そんなパターンは見たことがない。

 これで、互いの玉に対する速度が入れ替わった。▲7八銀上で詰めろは防げるが、受けただけなので難解な勝負になる。先手は残り時間が10分。7分考えたが、▲同歩と取るよりなかった。そして△8九金から千日手が成立。深夜の指し直しが決まった。

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 この千日手局だけでも語る人が語れば終わりが見えなくなるであろう、それだけ密度の濃い内容。しかし重要なのは、「△6六銀で千日手」ということだ。終盤どう見ても先手が勝つであろう局面から、死角を突くような一手で千日手に持ち込まれる。単に後手番に回る以上のダメージがあったことは間違いないね。

 実は先の局面、△7一金と打っても千日手の可能性はあった。でも勝つ可能性でいえば△6六銀の方がはるかに大きい。
 「羽生善治」を象徴するような一手であり、だからこそみんなの印象に強く残ったと言えるだろう。それは「厳密にこれが最善手か否か」という問題とは少し違う位置に在る話さ。

 

 

指し直し局

 

 30分の間をおいて、22時39分に指し直し局が開始された。

「指し直しに名局なし」という言葉があるのだけど、飛躍した文章に見えて、そこまで的外れではない。深夜に指し直した場合、多くは疲労や興奮で将棋が荒くなりすいんだ。
 でも「普通」や「多く」といった語が通用しないシリーズなのは、もう理解ってもらえたと思う。

 

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 戦型は矢倉、「銀損定跡」と言われる形になった。中盤に入ってすぐ銀損するという理不尽とも思える作戦だが、先手は攻めを継続できる。
 そして先手を持つのは攻めの得意な羽生さんだ。流れるような手順で後手の防衛線を破り、迫っていく。

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(△2八角の飛車取りを無視して▲3三歩。以降も飛車取りを手抜き続け、△1八角成と取らせたのが13手先、既に先手の攻めが切れない局面になっていた)


 後手も玉を逃がしながら先手陣を崩しにかかるが、このときの羽生さんはあまりにも強かった。

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 この局面、先手玉も相当に薄くなって攻め合いは危ない筋がたくさんあるのだが、ここで……

 

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 矢倉を再構築した。これで攻めに専念できる。

 その後、いくばくかして先手の勝利、羽生挑戦者が王座を奪還した。

 終局は翌日の午前2時2分。9時開始だから、17時間かかったわけだ。それだけの時間、これだけの指し手を紡ぐことができるというのは…尊敬に値するよ。

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 この第4局は千日手局、指し直し局ともに名局賞を受賞しているね。内容も結果も、それにふさわしいものだろう。
 でも、少なくともボクは一つの賞以上にこのシリーズ全体が……とても大きな意味があった、と思っているよ。

 羽生善治という偶像が復活し、より強固なものへ変わっていく過程が、ここに在ったのだ……とね。

 

 

 いくぶん長くなってしまったが…どうだったかな?

 本来なら1局ごとに区切って観戦記を書くものだが、こうして順に追いかけていくと大きな流れのようなものが見えてきたりするものさ。特にこのシリーズは前期の失冠や直前の王位戦といった要素も多分に影響している。だからこそ、こんな形で紹介させてもらったよ。

 棋士の世界は、狭い。同じ顔触れが何年も戦っていくことになるし、同時並行で行われる他の棋戦の影響を大きく受けたりする。いろいろな積み重ねの上に、その一局はあるんだよ。

 このシリーズというセカイは完結したけど、ここ以外の場所にも様々な物語が在ることは想像に難くないだろう。

 

 最新型の研究や対局が重視される昨今だが、過去の棋譜だって同じくらい大切なものだとボクは考えているよ。
 流行や研究は移ろいゆくものだし、結論めいたものが出てしまって指されない形も沢山ある。でも、棋譜の価値がなくなったわけじゃない。棋譜は勝負の一瞬を切り取って、ずっと宝石のような輝きを放ち続けている。

 ただ時が経つにつれ、人々がその宝石から遠ざかっていくだけなのさ。


 ボクは観測者として、その輝きを届けることができればそれでいい。

 

 

 さて…これからは、どんなセカイが紡がれていくのだろうね?
そんな期待を少しだけ抱きながら、筆を置くことにするよ。


 また会うことがあったらいずれ……運命の交差点で。

(終焉)