新田美波の徒然観戦 ガラスの靴の向こう
この将棋を語ることは、痛みを伴うかもしれない。朝、そう思いながら事務所に向かった。
名人戦は第5局2日目を迎え、妙な空気が事務所にあった。
既に決戦になりそうだったからということもあるし、この1局で名人戦が終わるかもしれない…という緊迫感もあったと思う。
ここ数年の名人戦は、羽生さん中心に回ってきたと言っても過言じゃない。
名人戦の最初に名局を紹介した去年の第4局みたいに「どんなに悪くても逆転するかもしれない」みたいな雰囲気はどこかに存在していたし、それを現実にしてきた。
でも、今期は違った。
王座戦、棋王戦と二度阻まれつつも名局を何局も生み出してきた天彦さんは、その力を遺憾なく発揮して3勝1敗。一気に奪取まで迫ったのだ。
第2局の終盤術は恐ろしかったし、第3局は作戦勝ちから押し切り、第4局は誰にも見えなかった細い寄せ手順で勝ち切った。どれも文句がつけようなのない強さで、見ているこちらも唖然とするほどだった。
ここまでくると、「新名人が誕生するのではないか」という流れのようなものが生まれてくる。このような雰囲気は、私は初めて経験することだ。
そして、第4局終了から間を置かず4日で第5局を迎えている。
このまま新名人が誕生しても、その実力に異を唱える人はいないだろうし、「なるべくして成った」と言えると思う。
でも、心をざわつかせることもある。羽生さんの負けに対する一部の過敏な反応…とでも言うのだろうか。
「羽生衰えた」発言は例年のこととしても、年齢を引き合いにだす声も増えた。「世代交代」という単語がニコニコ生放送で何度も流れ、解説の森下九段がやんわりと否定する事態になったときは心が痛んだ。
強いとみられていることの裏返しなのだろうけれど、だからといって失礼に当たることを言っていいわけじゃない…と思う。
私は定跡や将棋界の色々を勉強することが好きだから大量の情報を目にしてきたけれど、ほぼ必ずといっていいほど『羽生善治』という人が関わっている。
それほどに功績は多く、偉大な人だ。
だからこそ、神経質になっている面はあるかもしれない。
事務所の一室に入ると、異質な空気が更に濃く感じられた。その要因はすぐに知れた。
まゆちゃんが、部屋の隅で盤を広げて局面を並べていたのだ。
その視線は盤に固定されたかのように動かない。時折、駒を動かして考え込んでは元に戻している。
静かだけれど、誰も近づけない気迫を感じる。
事務所で一番の羽生ファンといえばまゆちゃんで、彼女が担当した対局はみんな羽生さんが対局者のものばかり。思うところが一番あるのだろう。
みんな、そっとしておくことで一致して対局の検討が始まった。
1日目は先手の羽生名人が横歩取りに応じて進行。佐藤八段は横歩取り△8四飛中原囲いを採用して、前例通りの進行となった。
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛
▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲5八玉 △5一金
▲3八銀 △6二銀(図)
「頑なに横歩取りを受けますねぇ。昔からそういう人でしたけれど」(菜々)
「…ですけど、佐藤八段の横歩取りの勝率や今までの正確さを考えればあまり良い作戦選択とは思えません」(ありす)
横歩取りになるのは大方の予想通りだったけれど、中原囲いなのは少し予想外だった。
元々中原囲いへの対策がいくつか出てきたから△7二銀型から動く形が流行した…と理解していたのだけれど、難しい所があるから研究してきた…というところなのだろう。
この戦型は、後手は中原囲いの固さを活かして攻め勝つ方針だ。先手は攻め筋を消していく指し回しが求められるので、神経を使う展開になりやすい。
先手は、右銀を繰りだしつつ厚みを持たせるのが定跡の一つで、一気に潰される心配はあまりない。少し、安心した序盤に思えた。
▲3六歩 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛 ▲3五歩 △8五飛 ▲3七銀 △8六歩
▲7七桂 △3五飛 ▲5六飛 △3四飛 ▲3八金 △9四歩 ▲7五歩 △8七歩成
▲同 金 △9三桂 ▲8六飛 △8五歩 ▲7六飛 △4一玉 ▲9六歩 △2四飛
▲2六歩 △8四飛 ▲6八銀 △5四歩 ▲9七角 △4二角 ▲7四歩
前例を先に離れたのは先手だった。▲8六飛に△8五歩を打たせて、駒の活用を遅らせる。
上手く後手の手段を封じた…と思った矢先、▲7四歩の開戦。これには、みんな驚いた。
ゆっくりしていると△3三銀から固められて、先手との玉型の差が大きくなる…。
理由をつければそうなるけれど、一気に終盤になる変化も含んでいる。ここで佐藤八段が封じた。
2日目はここから始まるわけで、検討にも熱が入る。「先手良し」の声も出始め、前2局のような暗い雰囲気はなかった。
△同 飛 ▲4二角成 △同金寄 ▲4六飛 △5五歩 ▲8八金 △8四飛 ▲8七歩 △3三桂
△9七角成が本線とみられていたところで△7四同飛。そして、▲4二角成△同金に、飛車交換をせずに▲4六飛。複雑な手順である。
「これ、8筋攻めと△8四飛を牽制していますねぇ。ここで指すと▲6六角の両取りです。だから△5五歩なんですねぇ」(菜々)
「先手が上手く立ち回っていると思いますけれど、勝ちやすさは後手にありますね。どこか1点破れてしまえば、先手は一気に寄ってしまいます」(ありす)
▲8八金―▲8七歩と先に受けて、後手からの手段がない。
ただ、先手の方針も難しい。△3三桂に、羽生さんが長考する。
先手が更に良くできるのではないか…そんな雰囲気だ。
▲6五角
▲6五角、決断の攻めだ。狙いは▲3四歩で、△同飛なら▲4三角成が飛車取りになる。△4五歩のような返し技が効かなくなるのは大きい。また、9筋を睨んでいるので▲9五歩もあるだろう。事務所でも、先手の攻めはなかなか切れないという評価だった。
△2三銀と受けて、昼食休憩になった。誰かが通りすぎたので見ると、まゆちゃんが部屋から出ていくところだった。先手良さそうだから落ち着いているかと思ったけれど、その表情は険しかった。……何か、嫌な予感がぬぐいきれない。
△2三銀 ▲9五歩 △3四銀 ▲9四歩 △4五銀 ▲9六飛 △6四歩 ▲7六角 △9五歩 ▲同 飛 △7四飛
休憩が終わって、パタパタと手が進んだ。▲9五歩は想定された攻め筋だけれど、▲9六飛の局面で事務所の空気が一変する。
「これ…角取られちゃいますよね?」(菜々)
先ほどまでは△6五歩には▲5四角から逃げられるのだけれど、△4五銀と出た効果でその手が消えている。
本譜も、△7四飛で角が死んでしまった。事務所の空気がだんだん冷えていくように感じる。
口数も減っていく。元々難解だったけれど、何かがおかしい…そんな感覚だ。
▲3四歩
▲3四歩で桂二枚との交換が確定した。駒の損得は微妙だけれど、後手は攻め手に困らない。攻め合いになると、後手の固さが生きてくる…局面は難しくても、長期的にみると先手つらい展開だろう。
「▲2六歩型だから▲3四歩が成立するんですねぇ…。▲2五桂の攻めもありますし、先手の攻め筋もありますから、勝負としてはまだ――」
菜々さんがそう言った最中に、局面が動いた。
△2五桂。
「ひえ~、歩頭!」(菜々)
角を取るのが自然なだけに、驚きを隠せない。
……意味としては、▲2五桂を消しつつ、取らせて歩の位置を上ずらせる狙いだ。
角は助けられないし、取るしかない。
……でも、部分的には後手がかなり得をしたように思える。▲3四歩の拠点が残るから一方的にではないけれど、今の佐藤八段が指すと好手順に思える。信用もあるし、実際に好手順なのだろう。
ここからは、ほとんど一本道になる。
▲同 歩 △7六飛 ▲9三歩成 △5六歩 ▲8五飛 △5七歩成
▲同 銀 △7九角 ▲7八金 △5七角成 ▲同 玉 △5六飛
▲4八玉 △5九角 ▲4九玉 △5七歩
手はかなり進んだけれど、変化する手段が難しい。後手が一方的に攻め、玉も固い。検討の熱気は次第に覚めていった。
△5九角では△5七角からの手順も考えられたけれど、こちらの方が手厚い攻めで佐藤八段らしい。
「△5七歩。もう後手の攻めは切れないので、先手は攻め合いでしょうねぇ」(菜々)
すぐさま、▲4五飛、▲3三桂が候補に上がる。…でも、後手の△3六歩(駒を渡すと詰み)や△5八歩成があって、難解だけれども先手の勝ちが見えない。羽生さんの長考が続く。
「ここくらいしか、時間の使い道はないでしょうね」(菜々)
そうこうしているうちに、夕食休憩に入った。
モバイル中継をみると、両者にサンドイッチが用意される予定だったが羽生名人は断ったという。
「食事をとらない…とはどういうことでしょう?」(ありす)
「それくらい集中しているか、食べられないくらい追い詰められているのでしょうか…。羽生さんが名人を初めて獲った第6局も、夕食がほとんど食べられなかったと本に書いていましたけれどねぇ」(菜々)
勝負のアヤがあるとすればここしかないけれど、光が見えないのはつらい。
30分なので検討を続けてみるけれど、思わしい手が出てこない。
手が止まる。そんなときに、
「▲2三角……」
声に驚いて振り向くと、まゆちゃんが盤を睨みながら角を盤に打ちおろしていた。
「先手が勝負するなら、これしかないと思います」
慌てて駆け寄って、盤を挟んで検討する。
王手なので後手は受けなければいけないが、
・△3二金で節約しようとすると▲4五飛で悪い。(角を取ると▲4三飛成で詰み)
・△5二玉には▲3三歩成で、△同金は▲4五角成りが攻防に効く。
・△3二歩も▲3三歩成で、△5八歩成で攻め合いなら△5二玉より得だろうけれど難解。
・△3二銀が自然さけれど、▲同角成△同金に▲6九銀で後手の攻めを急かすとこれも大変だ。
……もしかしたら、まだ難しい余地があるかもしれない。
そんな希望が少し、湧いてきた。
夕休も開ける。難しいとはいえ最終盤。どちらにせよ、終わりは近い。
▲4五飛。
まゆちゃんと私が有力とみた▲2三角ではなかった。これも自然な攻め合いで▲3三桂や▲8五角の王手はあるけれど、駒を渡せないのが痛い。手番が後手に回ってしまうのも大きい。
でも、何かあるのかもしれない。調べてみるけれど、思わしくない。
△5八歩成▲3九玉△3六歩▲3三桂…。
取ると▲8五角の王手が悩ましいけれど、△5二玉とかわされると手段がまた難しい。
覚悟はしていたけれど、いよいよ後手の勝利が見えてきた。
検討も止まり、みんな中継を見ている。このいろいろな感情が混ざって、表現できない。けれど、時間は進んでいく。
▲4五飛 △5八歩成 ▲3九玉 △3六歩
まで100手で後手の勝ち
それは、唐突だった。
△3六歩に対して、12分考えて羽生名人が投了。これで佐藤八段が4勝1敗となり、名人位を奪取することになった。
その瞬間、何人かが大きく息を吐く音が響いた。それくらい、みんな静かだった。
何を言えばいいのだろう…言葉が見つからない。
「有望な若い人が出てくるというのは、業界にとっては良いことだと思いますけれど…やはり、大きなことですねぇ」(菜々)
5年前、王座戦で失冠したのを最後に羽生さんはタイトルを失っていなかった。
挑失はあったけれど、2冠から王座と名人を奪還し4冠に帰り咲いた。
王座戦の中村六段、豊島七段、佐藤八段に対するフルセット防衛劇の衝撃は大きかったし、ずっと若手を退けるのではないか…という幻想を少なからず抱いていたのは事実だ。
それだけに、ショックが大きい。
たぶん、これまで多くの人が羽生名人に偶像を重ねてきたんじゃないか…そう思った。
「佐藤八段の横歩取りと、名人戦の条件が非常によく合致した結果だと思います」
ありすちゃんが、口を開く。
「王座戦や棋王戦は1日ですから、時間に追われて十分に読み切れない…という展開もありました。ですけど名人戦は、持ち時間9時間もある上に短手数になりがちな戦型ですから、十分に読みを入れられるのはは大きいです。時間に余裕をもって終盤に入るので、羽生さんの勝負術が発揮できませんでした」
正確な読みと判断があるからできることですけれど、と付け加えた。
一息ついて、更に
「第1局、第2局は早い段階から手将棋で、勝敗はどちらに転んでもおかしくない展開もありました。早くに定跡を外れて力勝負に持ち込んだ際にどうなったのか、もう少し見てみたくはありました。戦型選択の問題ですけれど」(ありす)
それだけ、佐藤八段の横歩取りが強かった…ということだ。
「丸山九段が名人になったときも、角換わりと横歩8五飛を引っ提げてでしたねぇ」(菜々)
「?」(ありす)
佐藤康光名人―丸山八段(当時)の戦いを、ありすちゃんは知らなかったらしい。
感想戦が行われ、事務所の評価とほぼ同じだった。▲2三角ならばまだ難しかったけれど、後手の勝ち筋ばかりの中それを一人で見つけるのは予想以上に難しかったのだろう。
でも、感想戦やインタビューを見ても、現実感が湧かなかった。
何かが溢れそうで、何かが失われたような不思議な感情が渦巻いている。
ガタッ!
まゆちゃんが席を立ち、フラフラと部屋を出ていく。
みんな唖然として動けなかったが、部屋のドアが閉じられた音で我に返った。
慌てて後を追いかける。少し先の廊下で追いついた。
「まゆちゃん!」
歩みが止まる。
「あの……その、何て言えばいいのかな……」
呼び止めたのはいいけれど、二の句が継げない。自分だって受け入れられていないのに、語る言葉があるはずもない。
「……今日の対局は、互いにミスが少ない好局でした。作戦的な面で先手が良かったと思いますけれど、▲6五角が結果的に疑問手で、後手の銀を繰り出す構想がそれを上回りました。ただ、羽生さんらしい踏み込みだったと思います」
いつもより小さく、静かな声でまゆちゃんが話しだした。
「そこから変化する余地は少なくて、▲2三角成も、厳密には後手が強く攻め合って大変です。時間も残っていましたし、かなりの量読んだ上での投了です。それくらい、天彦さんの指し手が正確だった…とも言えます」
更に言葉を重ねる。
「羽生さんが横歩取りを避けなかったのは、ここで逃げることが長期的に見れば自分にとってマイナスになると考えていたからでしょう。藤井システム、ゴキゲン中飛車、角交換四間飛車…これまでも羽生さんは、新しい形や考え方が生まれた戦型に、真正面からぶつかって理解してきましたから」
そうやって指した手が、いくつも定跡になってきたことは私も知っている。
「名人を失うだけなら森内さんとの間で何度も経験しています。まだ3冠あって防衛戦もあります。竜王戦の阿久津戦のように恐ろしい手順で勝ったりもしています。負けも若手トップの天彦さん、豊島さん二人による連敗ですし、ここ数局だけで好不調を語るものではないです」
それはまるで、見えない何かに反論しているようで、自分自身に言い聞かせているようにも思えて……。
「羽生さんが名人を失っても、他のタイトルを失っても、例え九段になっても、羽生さんが好きで、応援する気持ちは変わりません。良いときは称賛して、悪いときは応援する…それが、ファンということなんだと思います。……幸子ちゃんに教わったんですけれどね」
『ほめるときはほめて、そうでないときは応援してください』
幸子ちゃんが確かに言っていた。でもそれは、そうあることは簡単なことじゃない。
「これから、まだまだタイトル戦は続きます。棋聖戦だってすぐですし、王位戦、王座戦…他の棋戦もありますし、1年経てばまた名人戦です。天彦さんは名人を獲り頂点に立ちましたけれど、これからが正念場ですよ。この世界のシンデレラは、ガラスの靴を履いても終わらないんです。例え七冠を獲っても、その先も戦いは続きます」
それは、羽生さんの足跡そのものだ。
「そっか…そうだよね」
おそらく事務所にいる間、一人でずっと考えていたのだろう。
「それに…」
「?」
「A級順位戦の1回戦、羽生―深浦戦でしょう?王将リーグの熱戦以来ですよ。今から楽しみです。うふっ♪」
まゆちゃんの言葉を聞いて、少し、安心する。気が緩む。
だから、今思うととても軽率なことを言ってしまった。
「そっか…まゆちゃんは強いね。私なんか、どうすればいいかもわからなくて……」
「強くないですよ」
「え……?」
まゆちゃんは、語気を強めて私の言葉を遮った。
「応援してる人が負けて、あれだけ将棋に真摯に尽くしてきた人が悪く言われたりもして、辛くないわけないじゃないですか」
声が少し大きくなって、震えていた。
必死に感情を抑えていたことが今になって分かる。
「でも、それをいくら悲しんでも、事務所で話しても、何も変わらないし意味がないんです。それは、羽生さんを応援することとは別なんです」
振り向いたその目には涙がたまっていて、表情はゆがんでいた。
「だから、まゆは帰ります。自分の気持ちごと持ち帰って、整理がつくまで待とうと思います」
そう言って去っていくまゆちゃんを、再度引き留めることはできなかった。
悲喜こもごも、様々な感情を巻き起こしながら、名人戦は幕を閉じた。
だけど、これを書いている間にも王位戦の挑戦者が木村八段に決まり、棋聖戦も始まる。
羽生さんや天彦さんだけでなく、棋士の物語は一人一人にあって、終わることはないのだ。
切り替えるには、少し時間がかかるけれど。
この結果を受け入れて、また笑顔で盛り上がれるようになると思う。
これまでの勝負が、そうであったように。
(了)