高垣楓の徒然観戦 羽生善治という偶像
みなさんお久しぶりです、高垣楓です。
今回は久しぶりに、私がお送りしますね。よろしくお願いします。
第87期棋聖戦五番勝負 第5局 2016年 8月 1日
・対局前
もう、季節も夏です。おつかれサマー…と言いたいところですけど、この日の事務所は休むどころか活気があふれていました。
「楓さん、おはようございます!今日も目が離せませんねぇ」(菜々)
「おはようございます。棋聖戦、ですよね?」(楓)
「ええ、久しぶりの最終局な気がします。佐藤九段から奪取した期と…その次の、木村八段を退けた期…以来じゃないですか?あのシリーズもすごかったですよねぇ…」(菜々)
「かなり前…ですよね?」(楓)
「あ!……えぇと、棋譜を見たんですよ!アハハ…」(菜々)
防衛か、奪取か…。若い世代との対決ということも含めて、非常に盛り上がっていました。
9時が近づき画面の中、両対局者が大橋流で駒を並べていきます。
検分のときから、羽生棋聖の髪が茶色に染められていたことが話題になりましたけど…対局で気になるほどではないですね。むしろ、寝癖とかの方が気になります。
「羽生さんと、同年代の屋敷九段が立ち合いを務める時代ですか…」(菜々)
もう、ベテランの枠ですからね。
振り駒の結果、と金が3枚で永瀬六段の先手になりました。
「戦型は…羽生さん次第です。後手番なら、なおさら」(美波)
・対局開始
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲7八金
角換わり模様です。永瀬さんにしては珍しいように思いますけど…。
「第4局が、影響しているかもしれません」(美波)
「というと?」(楓)
「永瀬六段の矢倉は早囲いで、先手から形を指定できるメリットがあります。つまり研究もしやすくて、第1局(指し直し局)はそれが思いっきり刺さった対局だったんです。
でも第4局の中原流急戦は…そういった準備が、全く活かせない将棋でしたから。かなり、警戒しているんだと思います」(美波)
隣りにいたまゆちゃんも補足してくれます。
「それと…王位戦第2局もあるかもしれませんよ。羽生さんが後手番で、早囲いに対して7筋から動いて力戦に。そして快勝しましたからねぇ」(まゆ)
「角換わりにすればおそらく相腰掛け銀になりますから、こちらの方が研究が活きると判断したんだと思います。相当、準備してきたんでしょうね」(美波)
永瀬さんの趣向…ということらしいです。
角換わりの駒組みになればしばらく穏やかな序盤になりますから、事務所の雰囲気は和やかなものです。
ありすちゃんと飛鳥ちゃんが10秒将棋を指したり、
美波ちゃんがアーニャちゃんに角換わりを教えたり…。
思えば、落ち着いていられたのは最初の5分間だけでした。
・△9四歩
「ひえー!」(菜々)
その叫びが、みんなの心を代弁していたように思います。
「南禅寺の決戦ですか!?」(菜々)
周りの若い子には伝わってないですけど…いつものことですね。
「力戦模様にするのは…久しぶりに観ます。でも、ときどき指すんですよねぇ…」(まゆ)
「確か、タイトル戦でも前例が…ちょっと待っててください」(美波)
しばらくパソコンを操作して、見つけてくれました。
王座戦第1局 中村太―羽生 戦
竜王戦第4局 糸谷―渡辺 戦
前者は一手損角換わりに、後者は先手中飛車になっています。
「互いに手が広くて、どんな展開もありえます。矢倉、角換わり、一手損、横歩取り、陽動振り飛車…。羽生棋聖の方は、力戦にすればどんな形でもいいということだと思います」(美波)
逆に永瀬六段からすれば、できるだけ研究が活きる展開にしたいだろうから、無難な手を選ぶのではないでしょうか。とも付け加えてくれました。
・美波ちゃんの解説
▲9六歩 △3四歩 ▲2五歩 △8八角成 ▲同 銀 △2二銀
▲3八銀 △3三銀 ▲4六歩 △7二銀 ▲4七銀 △6四歩
▲3六歩 △6三銀 ▲3七桂 △4二玉 ▲4八金 △5二金
▲7七銀 △5四銀
戦型は、一手損角換わりになりました。定跡ではないので、互いに少しずつ時間を使いながら指しています。
局面の解説をしたいのですが…抽象的で、何を話せばいいのか分かりません。
美波ちゃんに解説をお願いすることにします。仕方ないですよね?
久しぶりに、「初級者向け」「中級者向け」「有段者向け」の3通りでお願いしてみました。
美波
「初級者向け」
戦型は『一手損角換わり』です。特徴は、後手が△8五歩を突いていないことにあります。こうしておくと、後の攻め合いのときに△8五桂と一手で桂馬を使える余地があるんです。
普通の角換わりのような展開だと、この桂跳ねが後手にとってプラスになるので工夫が必要なんです。
だから、先手は居玉にして様子をみているんですね。
「中級者向け」
一手損に対して先手の対策はいろいろありますけど、早繰り銀も棒銀も先手が明快に良くなる筋は見つかっていません。
△5一玉型で待たれると遠く、△4二飛のような対策もあります。9筋の突き合いが▲9五角の筋を消してより損な可能性もありますね。
本局は腰掛け銀に▲4八金型を組み合わせたのが永瀬六段の工夫です。おそらく▲2九飛と構えると思います。
「有段者向け」
正調角換わりにおける▲4八金・▲2九飛型は有名になりましたが、一手損でどうなるか…は未開拓の分野です。3七桂を捌くのに適していますから、△8五桂よりも早く攻勢をとれる可能性は高いです。ですから△4三歩型で待機するかもしれません。
後手からすれば7~9筋の薄さを突きたいですが、一手損の意味が薄れるので悩ましいです。
互いに陣形を見ながら手を決定したいですね。
非常に構想力が試される局面です。
序盤の戦型選択は、羽生棋聖が十分ではないか…というのが美波ちゃんの見解でした。
・菜々さんの見解 (手の流れ)
▲4五歩 △3一玉 ▲5六歩 △1四歩 ▲1六歩 △4四歩
▲同 歩 △同 銀 ▲6八玉 △3三銀 ▲2九飛 △7四歩
お昼休憩を挟みましたが、まだ序盤戦…です。
今度は、菜々さんに聞いてみましょう。
「ナナは昔から『角交換に5筋は突くな』と教えられてきたのですけど。今は、相腰掛け銀でも突くんですねぇ…。いや、もっと昔には突く将棋も多かったそうですけれど、棋譜すら十分に残っていないと思います」(菜々)
感覚が違う…と言いながらも、菜々さんは後手が少しポイントをあげたとみているようです。
「4筋の位を取って、▲5六歩を突いて…。盛り上がる将棋にする予定だったと思うんです。それなら、ナナも得意な展開です。
でも…△4四歩から歩交換にされるのを軽視した気がするんですよねぇ。
せっかく2手かけて突いた歩が消えて、桂馬も使えてないですし、5筋の歩も活きてる気がしないんです。
▲2四歩といけないとおかしいんですけど、△同歩▲同飛△4六歩!の利かしが入るので…。(取ると△1三角)難しいですけど、居玉のまま戦いにしたくはないです。
(参考図)
おそらく、永瀬さんの棋風じゃないでしょうし。
形勢は互角ですけど、流れでみると後手を持ちたいですねぇ。
こういう力戦はそこかしこに悪手、疑問手が転がっていますから、バランスを取るのだけでも一苦労ですよ…」(菜々)
ここからの構想が、互いに奏功するといいのですけど…ふふっ。
・ありすちゃんの見解(手損、方針)
▲6六銀 △8五歩 ▲5八玉 △6三金 ▲5七金 △7三桂
▲4八玉 △8六歩 ▲同 歩 △同飛 ▲8七歩 △8二飛
▲5八金 △4五歩
更に手順は進み、先手は右玉に構えました。
「少し…変じゃないですか?」(ありす)
先手の手順に、首をかしげています。
「▲6八玉、▲6六銀、▲5八玉、▲5七金、▲4八玉、▲5八金。手損もそうですし、方針が分かりません。すぐに先手陣が破られるわけではありませんが、自分から動きにいく将棋ではなくなりました。カウンター狙いでしょうか」(ありす)
永瀬六段は千日手狙いではないか…なんて、冗談と判断していいのか悩ましい声も出てきました。
△4五歩の局面は、後手良しの見解で一致しましたね。
・そして決戦へ
▲5五歩 △4三銀 ▲5七銀 △4四銀左 ▲4五桂 △6五桂 (図)
▲6六銀 △5四歩 ▲4六歩 △5五銀 ▲2四歩 △同 歩
▲5六歩 △6六銀 ▲同 歩 △8四角 (下図)▲6七金左 △7八銀
▲7五歩 △6七銀不成▲同 金 △7五角 ▲7六銀
これ以上待っても良くならないとみた先手は、▲5五歩から動きました。
ただ△4四銀とした局面は、先ほどの△4五歩が痛いほど効いてきます。玉の真上に拠点があるので、強く戦うことができません。
そこで▲4五桂。△同銀は▲4六歩で取り返せますけど、玉頭が戦場になりました。
「△3一玉と▲4八玉、1段の違いが大きく出てきそうです」(美波)
戦場から遠い方がいい、ということですね。
後手も強く△6五桂…もう、後には引けません。
△5五銀では△5五歩もありましたが、銀を取って△8四角。この自陣角が狙いでした。
(途中図)
玉を睨みつつ、△6六角と出て王手と桂の活用をみています。
▲6七銀のように受けると、△4四歩から桂馬を取る手が間に合ってきそうです。なので▲6七金左と節約しましたが、△7八銀の追撃がありました。
……とここまで書くと後手が好調なようですけど、永瀬六段も崩れません。
▲7五歩と角を近づけて、▲7六銀。飛車成を受けつつ角取りにもなっています。
「……まだ難しいですかねぇ。攻めては▲7一角がありますし、一方的な展開にはならないですよね」(菜々)
▲4五桂が攻めに働くと、後手陣も安泰ではなさそうです。
結論が出ないまま画面を眺めていましたが、羽生棋聖の手は駒台に伸びました。
△6八金(図) ▲同 金 △6六角 ▲3八玉 △9九角成
「ひえぇー!!?」(菜々)
「えぇ!?」(美波)
「ダーティシトー!」(アーニャ)
悲鳴が一斉に上がりました。金のタダ捨てです。
「え?……これは取るしかないですよね。△6六角と出て…繋がってるんですか?」(美波)
持ち駒は歩だけ。角桂だけで手が作れるのか、少し、不穏な空気が流れます。
ただ桂馬を成らずに、香車を取ったところで後手の意図がはっきりとしてきました。
「歩切れだから△2五香と打つ狙いでしたか…。『歩切れの香は角以上』……B面攻撃ですねぇ」(菜々)
歩がないので、飛車取りをうまく受けとめることができません。
「前の▲2四歩を咎めていますね。先手としては、嫌な手です」(美波)
それでも、勝敗が決まる空気ではありませんでした。まだまだ、戦いは続きます。
・受ける先手、攻める後手
▲7一角 △7二飛 ▲1七角成 △2五香 ▲4九飛 △4四歩
▲5三金 △同 金 ▲同桂成 △6六馬 ▲6七銀 △9三馬
▲5八銀右 △5七金
やはり香車を打って、△4四歩と急かす。先手は馬を自陣に引いて防戦します。
後手は歩を沢山持っていますが、使える筋がありません。
羽生棋聖が攻めきるか、永瀬六段が受けきるか。ギリギリの攻防です。
「この二人だと、こういう展開になるんですねぇ…」(菜々)
そんな中指された△9三馬には羽生さんらしい、との評価でしたね。
じっと手を渡して、永瀬さんに選択肢をゆだねたわけです。
局面は、先手がどう△5七桂成を受けるか、というところ。金銀を打てば崩れませんが、後手陣への攻めも薄くなるので長期戦になります。
▲5八銀は、一番強い受けと言われていました。△5七金で絡むのは自然ですが、また手が広いです。
▲7八金打、▲5九金のような受けや▲4五歩の攻め合いが検討されました。一番激しくなるのは▲4五歩ですけど、香がよく働いて厳密には思わしくなさそうです。
「そもそも、永瀬六段の棋風ではないように思います」(美波)
▲7八金打に△6八金▲同金△5七金▲7八金打…と進むと千日手ですけど、これは後手に打開の権利があります。
△7三飛と催促したときに、後手陣に迫る手が難しい…ようです。
(変化図)
成桂を取れば、先手陣はより危険になります。△2六桂のような王手が馬の効きを止めつつ寄せに働きそうです。
「受けきり勝ちや、攻め筋を見せて急かすつもりなら喜々として受けそうですけれど、どちらも望めないと指しにくいですねぇ」(菜々)
難しくなった…とはいえ、後手が少し余しているか。そんな雰囲気になりました。
・収束へ
▲同 銀 △同桂成 ▲同 金 △同 馬 ▲5八金
すんなり精算する順は、あまり検討されていませんでした。指した瞬間、意外そうな声が上がります。
▲5八金で馬を弾けるなら得ですけど、この瞬間が非常に危険で…むしろ寄ってる方が自然なくらいです。
すぐに、△2七銀から迫る順が並べられます。
「△3九金から送って…受けなしですよね?」(美波)
後手玉は絶対に詰まない形ですから、ここまでくると後手勝ちです。ですけど、先手から変化する余地はなさそうです。
静かに、行く末を見守ります。
・終局
△2七銀 ▲同 馬 △3九金 ▲同 飛 △2七香成 ▲4九玉
△3九馬 ▲5九玉 △4九飛 ▲6八玉 △8九飛成 ▲7八金 △5七角
まで、112手で先手の勝ち
▲5九玉には菜々さんが3度目の悲鳴を上げましたが、形勢は動きません。最後の数手は、羽生棋聖の手がモニター越しでも分かるほど震えていました。
△5七角に、額の冷却シートをはがして永瀬六段の投了。
これで羽生棋聖の防衛、9連覇、通算15期が決まりました。
『………………』
対局者と同じように、事務所もしばらく無言が続きます。
展開が急に速くなったというのもありますし、こう…まだ戦いが続くのではないか、というような熱が残っていました。
それくらい、壮絶なシリーズでした。
感想戦に入るあたりで、事務所の空気もゆるんできて感想を言い合います。
「1局目の千日手から、お互いの色がよく出た戦いでしたねぇ」(菜々)
「やはり、研究を外したのがよかったのでしょうか」(ありす)
ありすちゃんの言葉に、少しまゆちゃんが眉をひそめました。まゆだけに。
「…『外した』というよりも、『違う引き出しを使った』の表現があってると思いますよ。もともとオールラウンダーで、どんな形でも強いのが羽生さんですから」(まゆ)
「そうですか…。でも、横歩取りに苦戦しているのは変わらないと思いました」(ありす)
『…………』
また、静かになってしまいました。ここで終わるには、ちょっと物足りないですね。
「じゃあ、美波ちゃんのまとめで、解散にしましょうか」(楓)
「えぇ、私ですか!?えーっと……若手棋士と羽生世代の質の違いみたいなものが、よく表れたシリーズだったかなと思います。
羽生さんが10ほど前に『情報化が進むにつれて、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれた。でも高速道路を抜けた先では大渋滞が起きている』という例えを語ったことがありました。でも、今はそれがより顕著になっているんですね。
情報と研究で、終局までほぼすべての道のりを整備してしまうことすらあります。羽生棋聖の多忙さも含めて、この領域で競り勝つのは容易なことではないです。
でも少し脇道に逸れると、そこは未開の地が広がっています。読みと、感覚や大局観の勝負になったときには、まだ羽生世代に分がある。そんな印象でした」(美波)
「定跡を開拓してきた人達ですからねぇ…。将棋はつくづく簡単じゃないと思い知らされます」(菜々)
美波ちゃんの優等生なコメントで、検討は解散になりました。
・特別、ということ
人気の少なくなった事務所を眺めながら、ふと考えます。
将棋界の中で、羽生善治という棋士を見る目は他の人と明らかに違うと。
春の名人戦以降、その勝敗にはいろいろな反応がありました。
プラスもマイナスもいろいろでしたし、そのあたりは美波ちゃんが書いたりもしましたけど…
羽生さんを特別としていることは共通しています。
何か、他の人とは違うものを見ているような…そんな印象でした。
なぜ羽生さんは特別なのか。
それは…そう、感じたいから。なのかもしれません。
羽生善治は底が見えなくて、羽生善治は完璧で、羽生善治は特別で…。
そう思いたい人たちの意思が、本当の羽生さんを隠しているのだと。
そして、羽生さんもそれを否定しません。それだけ強く、勝ちを積み重ねてきたわけで。
それどころか勝つごとに、タイトルを得るごとに意思はより強くなっていきます。
まるで、『羽生善治という偶像』をみているかのようです。
アイドルを見るそれと…とてもよく似ている。そう、感じました。
でも、完璧な人間なんていません。誰だって迷い、悩みます。
眼鏡や染めた髪も人間的な、現状に対するささやかな対抗なのでしょう。羽生さんだって、普通の人間なんです。
20年トップを走って、若い世代が台頭する中、なおも特別であることを求められる…。
どんな心境か、想像すらできません。
「あれ、楓さん、帰らないんですか?」
美波ちゃんの声で我に返ります。もう、部屋にほとんど人はいませんでした。
つい、考え込んでしまったみたいです。
「…美波ちゃん」
「何ですか?」
「もし、自分のやっていることに終わりが見えないとき。キリがないと感じるとき。美波ちゃんなら、どうする?」
本当はこんなこと、人に聞くものじゃないんですけど…つい、口に出してしまって。
でも、美波ちゃんは少し考えて答えてくれました。
「目の前にあることを、やるしかないですね。先が見えなくても、1歩1歩前に進まないといけませんから」
私みたいに、目の前だけ見すぎて体調を崩しては元も子もないですけどね。と苦笑してましたけど、美波ちゃんらしい真っ直ぐな答えでした。
「そう、……ありがとう」
こうやって考えていても、仕方がない。
棋士は目の前の一局に全力を出して、それを積み重ねていく。周りがどうあろうと、それが本分です。
私のような観る側は、そんな勝負の面白さ、熱意を感じて、伝えることができたら……。それが今、目の前のできることかもしれません。
「じゃあ、目の前にいる美波ちゃんと二人で飲みに行きましょうか」
「楓さん、私は未成年です」
(了)