佐久間まゆの徒然観戦 Open my eyes for dreaming
「何が、起きたのでしょうか…」
終局直後の菜々さんのその言葉が、一局をよく表していました。
背筋が震えるような…得体のしれないものを見たような…。
畏怖のような感情すら湧いています。
事務所の空気も同じようなものでした。言葉が出ません。
……何が起きたのか。もう一度、振り返ろうと思います。
第64期 王座戦第1局 羽生王座―糸谷八段 戦
(2016年9月6日)
王座戦の開幕…。ここ数年続いていた、4連続タイトル防衛戦の最後です。
今年は、いろいろな事がありました。
少し、取り乱してしまったこともありましたけど…周りは関係ないですよね。
あの人が頑張っているなら、それを応援するだけ。そう決めました。
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲2五歩 △8八角成
▲同 銀 △2二銀 ▲6八玉 △3三銀 ▲3八銀 △7二銀
▲7七銀 △6四歩 ▲2七銀 △7四歩 ▲7八金 △6三銀
▲2六銀
糸谷さんは、昔から一手損角換わりが得意です。
すごくバランスの難しい戦型ですけど、薄い玉でも崩れない、独特な棋風ですね。
羽生王座も棋聖戦第5局など、採用はしますけど…指し方が違います。
個性が出やすい戦型なのかもしれません。
先手の羽生王座は棒銀で対抗しました。普通の角換わりとは1手違うから…ですけど、簡単には突破できません。
細かな駆け引きが続きます。
△1四歩 ▲3六歩 △4四歩 ▲3五歩 △6五歩▲3四歩
△同 銀 ▲7九玉 △7三角 ▲3七角 △4二飛
角を打ちあって、△4二飛。不思議な形ですが、これで先手を牽制しているんですね。後手は1手損を利用して、飛車先を突かずに駒組みを進めます。
駒を前に出そうとすると隙を突かれるので、強い攻めが決まりにくい…手を作りにくい展開です。
▲6六歩 △同 歩 ▲同 銀 △7二金 ▲5八金 △4五歩
▲7三角成 △同 桂 ▲3七銀 △3三角 ▲6七金右
▲5八金を、後で羽生王座が悔やんでいました。…いえ、ここまでの手順に問題があったかもしれない、とすらしています。
意味が分かりませんよねぇ?でも、そういう世界なんですよ。
後手から角交換して、△3三角。この銀取りを受けるための▲5八金なんですよ。でも、ここからの手順が鋭かったんです。
△3六歩 ▲同 銀 △3五歩
△3六歩から銀をつり上げて、△3五歩。これで、銀が逃げる余裕がありません。
▲2七銀は、△4六歩から後手の猛攻を浴びます。▲5八金のままなら、▲2七銀△4六歩▲3八銀で受けが効いたんですけど…。▲6七金を強制されて、受けきれないんです。
(変化図)
▲2七銀△4六歩▲同歩△同飛
(△4九飛成と△6六角の十字飛車が受かりません)
ここで、羽生王座の手が止まりました。
▲2六角 △3六歩 ▲5三角成 △5二銀 ▲4二馬 △同 玉(図)
▲8一飛 △6四角 ▲1八飛
▲2六角。17分でしたが、長く感じましたねぇ…。攻め合いなんですけど、他に手がないともいえます。
でも、銀をそのまま取られて、馬も交換することになって…銀損です。
このとき、事務所も嫌な空気に包まれまていました。馬も消えてしまって、飛車1枚ではどうしようもない…と。
「矢倉に『銀損定跡』はあるけど、先手玉が堅く攻めが続くから成立してるの。この局面だと…」
継ぎ盤を挟んだ、美波ちゃんの顔も曇っていました。
▲6四角は攻防に効いていて、やはり厳しく見えます。▲1八飛と駒を封じ込めたところで、糸谷さんが手を止めました。
おそらく、良くできるとみての長考…でしょう。辛い、時間でしたね。
「……いくら何でも長すぎませんか?」(ありすちゃん)
10分…20分…。残り時間は既に2時間を切っているのに、手が指されません。
盤を囲って検討が始まり……しばらくして、手が止まりました。
自然に見える△3七歩成は、▲6五歩が角取りです。△同桂▲同銀△5五角…
(変化図1)
(▲1八飛から△3七歩成の変化)
△3七歩成 ▲6五歩 △同 桂 ▲同 銀 △5五角右 ▲6四桂
△6一歩 ▲9一飛成
(次の▲5六香や▲5二桂成から▲6一竜が受けにくいです)
飛車を捕獲しにいく△8二銀や△8五桂も自然ですけど、▲3五歩がありますねぇ。
この銀が動くと、▲2一飛成~▲2三竜と逃げられるんです。
(変化図2)
(▲1八飛から△8二銀の変化)
△8二銀 ▲3五歩 △7一金 ▲同飛成 △同 銀 ▲3四歩
△1五角 ▲5四金
(角を取れる上に駒がバラバラで、後手玉が不安定ですね)
(変化図3)
(▲1八飛に△8五桂の変化)
△8五桂 ▲3五歩 △4三銀引 ▲2一飛成 △3一金 ▲2三龍
△3二銀打 ▲2四歩 △2三銀 ▲同歩成 △1五角 ▲6五歩
△8二角 ▲6四桂
(後手陣にと金ができて嫌みが多いです)
もちろん後手が悪いというわけじゃなくて、どの変化も難しいのですが…「銀損」した将棋が「難しい」んです。
どうなっているのか…次の手が指されるのを待つしかありませんでした。
△6五銀 ▲同 銀 △同 桂 ▲6六歩 △5七桂成 ▲同 金 △6一歩
▲5六桂
33分かけて放たれたのは、△6五銀…。▲6五歩を防ぐ意味でも、自然な手ではあります。ですけど、これは精算して▲6六歩が受けの好手になります。
先手陣が、一気に引き締まりました。
底歩で飛車の効きを止めましたけど、▲5六桂が絶好です。
……ここ数手で、「後手が良い」という雰囲気は消えてしまいました。
何が起きたのか分からないまま、指し手が続いていきます。
△5三角 ▲8八玉 △5五角 ▲4四銀 △同角上 ▲同 桂
△同 角 ▲9一飛成 △4三銀引 ▲5六香
▲8八玉の早逃げも好手ですね。戦場から遠ざかりつつ、△3五角で玉を睨む手を消しています。
羽生さんらしい手渡しです。そしてそれは、手を渡せるだけの余裕があるということなんです。
▲5六香で夕食休憩に入りました。
このときには、満場一致で「先手優勢」の見方でしたねぇ…。歩切れがとても痛いです。
…でも、この香は銀損から23手後に取った香です。
最初は、取れる見込みすらなかったんですよ?△6四角が睨んでいましたから。
理解が追い付かない…その一言に尽きます。
△6二金 ▲6四角 △3三玉 ▲5二香成 △同 銀 ▲4六歩
△5三香 ▲4五歩 △5七香成 ▲4四歩 △6七銀 ▲5一角
△2二玉
粘りや早指しに定評のある糸谷さんですけど、粘る手段がありません。歩切れですから、細かな受けの手段がありません。
攻め合いを目指しますけど、8八玉が遠いですね。そして、封じ込めたはずの▲1八飛が受けによく効いています。
後手の攻めを受ける手もありますが、一直線に勝ちにいきました。このあたりも、羽生さんらしい指し回しです。
先手玉は、絶対に詰みません。そして、収束です。
▲3三歩 △同 桂 ▲4三銀 △同 金 ▲同歩成 △同 銀
▲3四歩 △同 銀 ▲6七金 △同成香 ▲3二金
まで、95手で先手の勝ち
▲4三銀で、後手は受けなし。最後は▲6七銀と質駒を取って、後手玉を即詰みに打ち取りました。
…そして、冒頭の場面につながります。
(投了図)
もともと、羽生さんの指し方は…その強さは「理解できない」ところにあります。
予想していなかったけれど、指されてみると難しい…これは非常に大きな武器です。それまでの相手の読みが外されるわけですから。
だからこそ、羽生さんに対する棋士の多くは「序中盤で先行して、逃げ切る」という形を目指すわけです。
……でも、それが分かっていても、本局は異常でした。中盤が始まったばかりの局面で銀損をして、それでも難しい。
それまでの手順に細かな問題はあったのでしょう。でも、銀損から明快に良くならない……そんな局面を作り続けたことが恐ろしいんです。
感想戦も、徹底してその周囲が調べられました。やはり△6五銀が疑問手だったという話でしたが、はっきりした代替案がなかなか出ませんでした。
その前の△5二銀や△6四角以外にも、有力な手はいろいろあります。なのに、進めると難しい…。
「わずかに後手良し」や互いに怖い陣形になってしまいます。
もちろん、本譜より他の手を選ぶべきなんでしょうけど、糸谷さんの感覚を狂わせた…それほど不思議な局面だった、と言う方が適切かもしれませんね。
そして羽生さんは、「そういう局面」だと判断して誘導したわけです。
「見えている世界が違うんですかねぇ…」
菜々さんの茫然とした呟きに、答えられる人はいませんでした。
今期は、いろいろなことがありました。いろいろな意見もありました。
……今が永遠に続くわけがないことは、分かっています。
それでも…こんな手を見せられたら、夢をみたくなるんです。
理解のできない手を、その感動を、ずっと観られるんじゃないか…って。
夜、プロデューサーさんから連絡がありました。
『お誕生日、おめでとうございます。何か希望がありましたら、できる限りお受けします』
日付をみると、9月7日でした。夢中になって、半分忘れかけていましたねぇ…。
プロデューサーさんらしい文面でしたけど、何をお願いするか、少し迷います。
2人の時間は、これからいくらでも作れる。…いや、作る。
だから、今しか抱けないこの想いを、夢を、残そう。
そう決めて、お願いすることにしました。
『じゃあ…久しぶりに、企画に参加させてください』
願わくば、目を開いて、その夢の続きを。
(了)