北条加蓮の徒然観戦 シンデレラは終わらない
「3―2で奪取と予想する。今の佐藤ほどの勝ちっぷりは他の人を含めてもあまり記憶にない。ここまで勝ってタイトルを取れないのは酷なくらいだ。」
「防衛すれば、「こんなに勝っても羽生には勝てないのか」と知らしめることになる。」
王座戦前のインタビュー記事を見て、私は目を疑った。
普通の棋士なら流して読むところだけど、この発言が渡辺棋王から出たことに衝撃を受けたのだ。
去年のことになるが今期の王座戦は、羽生王座に佐藤天彦八段が挑戦することとなった。
こういうタイトル戦の前には別の棋士による前評判のような記事が出るのだけれど、その中の一文である。
渡辺棋王は、他の棋士を褒めることはほとんどしない。知らない人が見れば辛辣ともとれるコメントを残すタイプの人だ。戸辺六段、村山七段を含めて「酷評三羽ガラス」という表現もある。
そんな人が佐藤八段寄りの立場から残したコメントの数々は、意外を通り越して疑問に思うほどだった。
もちろん、そう言わしめるだけの実績はある。A級に上がった今期、この時点(8月30日の記事)トップ棋士を相手に勝率が8割。A級そのものもトップで挑戦者争いを走っていた。そして、後手横歩取りは文字通り「無敗」。
塚田九段の塚田スペシャルとか、久保九段のゴキ中や石田流のような、周りの棋士も恐れる伝家の宝刀を引っ提げてのタイトル戦だった。
もう一人、村山七段が羽生王座寄りのコメントをすることでバランスをとる構成だったことも多分に影響しているだろうが、それでも頭をよぎるのは彼らの仲の良さだ。
佐藤天八段と渡辺棋王は非常に仲が良い。このあたりの話は周知の事実だったりするのだけれど、今では佐藤八段を含めた「酷評四羽カラス」という呼称もつくほどだ。
それが悪いことだとは全く思わないけれど、棋士は、最終的には商売敵である。
今では伝説となった「島研」では、対局が主で解散の理由もタイトル戦で当たるようになったから。そして最後の打ち上げで止まったホテルではやることがなくて部屋に籠りきり…というおまけ付きだ。
ここまで徹底する方も珍しいかもしれないけれど、世代ごとの感覚の違い…のようなものを感じた。
そんな個人的な屈託とは関係なく対局は進んでいき、王座戦は羽生王座が3-2で防衛。
文字通り、「こんなに勝っても羽生には勝てないのか」
と知らしめることになった。
そして、それからほどなくして佐藤八段は次の挑戦を決める。
その相手こそがこのコメントの主、渡辺棋王だった。
朝。
……体が重い。どこからきているのか分からない、鈍痛ともいえる違和感。
そんな漫然とした体調不良に不安すら覚えなくなったのはいつからだろう。
今日が祝日で良かった、そう思いながらゆっくりと体を起こし、朝の支度を一通りする。
…たぶん、今日は一日外に出られる状態にはなれないだろうけれど。部屋で横になって、嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるしかない。いつまで続くか分からないし、完全に過ぎ去る…ことはないみたいだけれど。もうそれにも慣れてしまった。
今日が祝日なのが不幸中の幸いだ。
パソコンをつけて、少しいじったところで今日がタイトル戦だったことに気がついた。
王将戦が終わってまだ2日。対局者は違えど、非常に過密だ。
「そっか、今年度も終わりだもんね」
将棋界は私たち学生と同じく4月から新しい1年が始まる。それまでに、前期のタイトル戦は終わらせなければならない。
日程をみると、次の棋王戦第5局の予定は3月31日だった。本当の意味で最終局だ。
ここまで渡辺棋王の2勝1敗。1敗は佐藤八段の後手横歩につけられたものだけれど、他は堅実な指し回しが光る勝利だった。特に、第3局の△8三銀打からの指し回しは渡辺棋王の棋風が凝縮されたようだった。
恐ろしいまでの佐藤八段の粘りも印象深かったけれど。
今度は佐藤八段の後手番。志向する戦型はほぼ間違いなく後手横歩取りだろう。そして、渡辺棋王もそれを受けるはずだ。そういう棋風だし、A級順位戦最終局で佐藤九段相手に後手横歩を試したのも、全く関係がないわけじゃないだろう。
午前九時、西村九段の開始の合図で始まった対局は、大して時間を使うことなく横歩取りへと進んだ。
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛
▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲5八玉 △7二銀
▲3八銀
最近よく指されているのは△2三銀から△2四飛とぶつける指し方で、研究も非常に盛んだ。
でも、先に変化したのは先手の方だった。▲3八銀。さっきの▲3八金型と違って横や下からの攻めに強く、▲3六歩から、銀や桂を繰り出す攻めも見せている。
例えばここで△2四飛から飛車交換して攻め合ったとき、△7九飛のような攻めが効きにくい。
しかし、先手玉は非常に薄く別の攻め筋が生まれることになる。主流にならないのもそのためだろう。
△7四歩 ▲3六歩 △7五歩 ▲3五歩 △7六歩 ▲3七桂
△2七歩 ▲2九歩 △7四飛 ▲7五歩 △5四飛 ▲7六飛
△2四飛 ▲3九金 △8二歩
△7四歩~△7五歩がその攻め手順。桂を跳ねる余地を作りながら、戦端を開く。そして、△2七歩から2筋を狙う。
▲3八銀型だから生じる弱点だ。ここまでくると、先手玉の薄さが際立って見えてくる。それが形勢には直結しないけれど、特に右辺はきれいな形とは言えない。ここからどうするのか。
そんな局面でお昼になった。
▲7七桂 △5一角 ▲6八銀 △3三桂 ▲9六歩
△2三銀 ▲9五歩 △1四歩 ▲1六歩 △4二玉 ▲8五桂
軽く済ませてから少し横になる。奈緒に知られたら絶対にお粥を食べることになってしまうけれど、それじゃあ1年に何回食べればいいのか…きりがない。
13時を回って指された手は▲7七桂。角交換を拒否しながら、攻めも見せている横歩取りらしい一着だ。
後手は角交換が望めないので△5一角。もし、ここで▲7四歩と突くと△8三銀が狙いになる。角がいるので▲7三歩成がないのだ。
ここからはしばらく陣形整備が続き、先手は9筋の位を、後手は銀冠の完成を主張した。
そして、▲8五桂。ここから、一気に流れが激しくなる。
△7三桂 ▲同桂成 △同 角 ▲4五桂打 △4一桂 ▲7四歩
△6四角 ▲3三桂成 △同 桂 ▲6五桂 △5二金 ▲7三歩成
△同 銀 ▲同桂成 △同 角 ▲3三角成
桂交換から後手は角を捌く。▲4五桂△4一桂の瞬間は千日手の三文字が頭に浮かんだけれど、先手からすれば面白くない順であることは確かだ。ということで桂馬を交換しなおして▲6五桂。打開するならこのくらいだが、これが結構厳しい。
7筋の攻めと、5筋も睨んでいる。▲5六飛と回ったところでは、攻め駒が非常によく働いているので先手の模様が良く見えてきた。玉も、相対的にみると手厚い。
でも、ゆっくりしていると△7六桂の両取りがある。渡辺棋王は、▲3三角成と一気に斬りこんだ。
△同 玉 ▲3四桂 △2五桂 ▲4一銀 △3七桂成 ▲5二銀成 △2八歩成
▲同 歩
これを△3三同金と取ると、▲4五桂が厳しい。6五桂から5筋を突破する手もある。そこで△3三同玉。ここでも▲4五桂があるけれど、△2二玉から端に逃げ込んで意外に耐久力がある。これはこれで難しい戦いだろう。
だから▲3四桂で玉を縛ったのだけれど、△2五桂が佐藤八段の実力を見せた一手。
桂交換から3五の歩を取れば、先手の攻めは切れてしまう。手抜くしかないけれど、かなり厳しい成桂ができた。流れが後手に傾きはじめたように感じる。
このあたりから、渡辺棋王の背筋が曲がって前傾姿勢になってきた。
△5四歩 ▲7四歩 △6四角 ▲5四飛 △6六桂
▲6九玉 △7八桂成 ▲同 玉 △6六桂 ▲8八玉
△5四歩は、なんとなくだけれど好手だと思った。実際、読んでみても好手なのだけれど。
先ほどまで先手は▲5三飛成からの攻めがあって、後手が上手く受ける手が難しかった。
それなのに△5四歩で手を渡されると、今度は先手が手段に窮してしまっている。
成桂があるから攻めるしかないけれど、飛車を使う以外に早い攻めはない。
角を6四に呼んで飛車を切れる形にしてから歩を取ったが、これには△6六桂がある。
▲同歩は△4五角が両取り。玉を引いて受けても、おかわりがある。
あれだけ安泰だった先手玉が、一気に危険になった。
難解な終盤が、幕を開ける。
△2六飛 ▲2七歩 △同成桂 ▲2五歩 △4五角 ▲6四飛
△同 歩 ▲5六桂 △7八飛 ▲9七玉 △3四銀 ▲同 歩
△同 玉 ▲2四金 △3五玉 ▲5三角 △4四桂 ▲3六歩
△同 飛▲2七銀 △5六飛 ▲同 歩 △2七角成
夜になってもあまり食欲は湧かなかったので、軽く済ませるだけにして中継画面に戻る。
…奈緒が知ったら絶対に怒るだろうな。
現局面は▲4五桂までの詰めろなので、△2五飛で逃げ道を開ける。
▲2七歩を取るのは効かされのだけれど、△7六角のような寄せ合いは先手に分がありそうなので仕方ない。
▲2七歩からは互いに1分将棋。見ているこちらも理解するのが大変な局面が続く。
「敵の打ちたいところに打て」で△4五角、飛車を持って△7八飛。即詰みはないけれど、銀を持てば先手玉は詰む。
先手の攻めに制限を掛けてから▲3四銀と手を戻す。先手はほぼ受けがないので(△3八成桂が詰めろになる)後手を寄せるしかない。
▲3六歩も悩ましい手で、△同角は▲4六銀の一手詰み、△同玉は▲6四角成が詰めろで寄り。
△同飛も▲2七銀が厳しいように見えるが、△5六飛▲同歩△2七角成が妙手順だった。
後手は念願の銀を取って、詰めろ逃れの詰めろ。
互いに、ミスらしき手は見当たらない。だけど、それまでのわずかな差が広がっているように思える。
観戦している人も、解説をしていた棋士も後手の勝利を、第5局を想像した。それくらい先手が窮地に見える局面。
50秒を読まれたところで、渡辺棋王の右手は駒を持って後手玉を通り過ぎ、左側へと舞った。
▲7七桂。
「えっ……?」
思わず声が漏れる。そして、直感的に何か嫌な予感がした。
詰めろを受けた。…いや、これで受けきれるわけじゃないけれど、渡辺棋王は諦めた手つきではなかった。
「6五の地点を塞いでる…?」
直感が、具体的な読みで現実になっていく。
後手玉は4五~5四(5六)~6五~7四と逃走ルートがあったからまだ安全だったわけで、6五の地点を止められると一気に危険になる。詰んでもおかしくない。
「30秒…」
秒読みの声で一瞬我に返る。そうだ、1分将棋だ。
恐らく佐藤八段も予想していないこの勝負手に、対応する時間はあまりにも少ない。
詰めろなのか、そうでないのか、先手を寄せる手段はあるのか、変化が多すぎて読み切れない。
「50秒、1,2,3,4,5,6,7」
パシッ
佐藤八段の手は△8五桂。なるほど、▲同桂なら6五の地点が開いて後手玉は安全になる。
そして、王手だからひとまず詰まされる心配はない。
このまま、寄せれば後手勝ちが決まる。だけど……
▲9六玉 △8八飛成 ▲3四飛 △4五玉 ▲6四角成 △9九龍
▲8五玉 △8三香 ▲7五玉 △9五龍 ▲8五銀 △同 龍
▲同 桂
▲9六玉。ここで端の位が活きた。ここで△7七桂成で寄れば後手が勝てる……
……詰めろにならない?
後手は▲3四飛△4五玉▲6四角成で必至。だからここで詰ますしかないのだけれど、成桂が邪魔をして先手玉が詰まない。
「これって…もしかして…」
先手が勝つ?あの▲7七桂で?
頭が追い付いてこない。△2七角成のときの、終局が近い雰囲気は完全に消えてしまった。
△8八飛成で先手玉に迫るけれど、上部が抜けている。
そして、▲3四飛から後手玉は受けなし。△9九竜から相当に怖い形だけれど、7五の歩を取って6六~5七と逃げるルートがある。
後手の2七の竜が、玉の陰になっているのも痛い。
1分将棋の中、佐藤八段がリップクリームを持って勢いよく唇に塗った。
渡辺棋王の背筋も伸びている。
終わりが近い。
まで、125手で先手の勝ち
▲8五同桂を見て、佐藤八段は脇息に両腕でもたれかかり、両手に顔をうずめる。
悲壮……という文字では表しきれない姿がそこにあった。
正座になおり、投了。感情を抑えながら、はっきりとした声で告げた。
そしてこの瞬間、棋王戦は3勝1敗で渡辺棋王の防衛、4連覇が決定した。
投了の後、しばらく無言の状態が続く。佐藤八段はうなだれ、渡辺棋王も慮って盤面を見つめるだけ。先に声を出したのは、佐藤八段の方だった。
「金でしたかね」
▲7七桂の局面の話だ。やはり、勝負を分けたのはここだろう。
少し会話をしたところで、新聞社のインタビューが始まった。そして大盤解説会へ向かう。
それが終わって戻ってきてから、感想戦が始まるのだろう。
「………………」
そこまで確認してから、私はベッドに倒れ込む。恐ろしいほどの何かを見た興奮と動揺、そして全てが終わった現実が一気に降りかかってきて、何がどうなっているのか自分でも分からない。
ただ、体がそれまでの疲労を思いだしたように重くなってきて、自分の体調が悪かったことも認識する。
1分。何も考えなくても過ぎてしまうそんな短い時間に、対局者は膨大な量の読みと判断、そして勝負術を駆使していた。人間の脳に限界があるとしたら、あの瞬間なんじゃないかと思うくらいに。
名局を観た感動…というより、茫然自失の方が近いかもしれない。こんな対局を観たのは、いつぶりだろう。
感想戦が始まるまでの間ずっと、得体の知れない余韻は続くのだった。
感想戦で重点的に調べられたのは、やはり▲7七桂の局面だった。
ここでまず驚くべきことは、渡辺棋王がこの手を「負け」と思って打っていなかったということだ。実際、ほとんどの変化が「先手勝ち」になる。
△8五桂は、本譜のように詰めろが掛からなくなるから後手負け。
△8四桂も詰めろが続かない。
△6八飛成はそっぽでやはり負け。
△8五金(取れば詰み)が正着とされたけど、金を手放す見えにくい手の上に、ここからがまた難しい。
▲3四飛△4五玉▲4六歩と突いて、後手玉は怖い形だ。
△5六玉と逃げたいところだが▲5七銀打とされて、△5五玉と引くしかない。
(△4七玉は▲4八金まで)
▲6六銀と王手で桂を取って、△5四玉に▲8八桂で先手玉が受かっている!
次に金取りがあるのでこれも先手勝ち。ここまでが渡辺棋王の読みだというのだから恐ろしい。
戻って▲4六歩には△同玉と取るのが正しく、▲6四角成に△4七玉と敵陣に入ると、僅かに詰まない!
先手に1歩あるとこの筋も先手勝ちなので、▲7七桂の局面は非常にギリギリの形勢だったと言えると思う。…ただ、後手が勝つ順は最善の1通りしか見つかっていないけれど。
佐藤八段が「1分じゃ見えない…」と漏らしていたけれど、これを1分で読み切るのは無理というものだ。
膨大な変化がある上に最善が△8五金~△4六同玉という、直感を無視するような手の連続だった。
将棋はその仕組み上、何もないところから妙手が生まれるわけじゃない。
△2七角成の局面で、▲7七桂と打つこと自体は誰にでも可能だ。でも、あの勝負手があることを見つけて、読んで「勝てる」と判断して指すことは普通の人には到底できない。逆に言えば渡辺棋王は指せるからこそ、タイトルを防衛することができた。
感想戦が終わって中継が終了しても、対局の余韻が消えることはなかった。
しばらく前に、佐藤八段をシンデレラに例えて書いた記事があったことを思い出した。
でも、棋士の世界に魔法を掛けてくれる魔法使いはいないし、馬車に乗って皆を追い越すこともできない。自分の足で、階段を登っていくしかないのだ。
王座戦、棋王戦はわずかに届かなかったけれど、4月からは名人戦がある。そして、来期のタイトル戦が始まっていく。この物語はハッピーエンドで終わらない。例え7冠を達成しても、長い戦いが続くことはあの人が示している。
それは佐藤八段だけに限らない。上を目指して沢山の棋士が戦っていて、これから誰が駆け上がるかは分からないのだ。
最後に確認した中継ブログに、1枚の写真が載っていた。感想戦の前に解説会場に移動する対局者の後ろ姿なのだけれど、二人が並んで歩いている。移動中も、変化を口頭で話し合っていたそうだ。
珍しい光景だけれど、そこには二人だけの世界があるようで…。悪い気持ちはしなかった。
「お疲れ様でした」
思わず、そんな呟きが漏れる。
今期最後のタイトル戦が、最高の名局だったことを噛みしめながら画面を閉じた。
(了)