とある事務所の将棋紀行

将棋の好きなアイドルが好き勝手に語るみたいです。

新田美波の徒然観戦  その白星はどこまでも重く

 

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『あと1勝』という言葉は、当時者には残酷でしかない。

1つ勝つということはそれほどに苦しく、重いものだ。

 

そして、このシリーズでは一番…使うべきでない言葉なのだろう。

 

 

あの名人戦から季節は移り変わり、もう秋になる。その間にも、棋界ではいろんな事があった。

不調もささやかれていた羽生王位は、棋聖戦をフルセットで防衛。王座戦も2勝して、いつの間にか年度成績は勝ち越している。タイトル戦が多いとはいえ、6連敗を巻き返したのは流石としかいいようがない。

 

……でもこのシリーズを語るとき、中心にいるのは木村八段なのだとも思う。

タイトル挑戦5回、奪取0回。

言うまでもなくトッププロなのだが、タイトル保持者と紙一重の戦いをしながらタイトルを取っていない。

その人柄も相まって、羽生王位の声援に負けないくらい、木村八段を推す声も大きい。ともすると、それを超えるほどに。

 

初日の朝、ルームの中は期待と緊張が入り混じったような雰囲気だった。 少し、ラクロスの試合前を思い出す。

互いに力を出しあう熱戦が多く、そのうえ第7局までもつれる展開は久しぶりだ。 そして…この勝負で全てが決まる。

 

しばらく挨拶していたのだけれど、少し気になったことがあった。

菜々さんが、少し元気がない。

…いや、元気が「ない」わけではないけれど。 例えば楓さんやありすちゃんだったら普通でも、菜々さんだと落ち着き過ぎ…そんな感じだ。

 何かあったのか聞いてみると、「美波ちゃんは周りをよくみてますねぇ」と苦笑しながらも話してくれた。

 「この勝負を…どんな気持ちで観ればいいのか分からないんです」
少し、目を伏せながら続ける。

 「第5局で木村八段が粘り勝ったとき…ナナは奪取を期待していました。ついに…ついに初タイトルが見えてきたって」

第5局は、木村八段の執念が見えるような将棋だった。終盤不利になってからもあきらめずにひたすら食らいつき、1分将棋の中で羽生王位の緩手を突いた。これで3-2となって羽生王位のカド番となった。

 「でも…やっぱりカド番の羽生さんは強いですよねぇ。第6局は完勝でした」
右玉から、中盤で圧倒して勝利。タイトルの行方はこの7局にもつれ込んだ。

 「羽生さんが復調したのは嬉しいんですよ?この勝負が、もっと続いてほしいとすら思っています。でも――」

勝負の行く末をただ、見守ることしかできないんですよねぇ…。

その静かな呟きは、妙に耳に残った。

 

 (2016年 9月26日、27日)

第57期王位戦第7局 羽生王位―木村一基八段 戦

 

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▲7六歩   △3四歩   ▲2六歩   △8四歩   ▲2五歩   △8五歩
▲7八金   △3二金   ▲2四歩   △同 歩   ▲同 飛   △8六歩
▲同 歩   △同 飛   ▲3四飛

振り駒は歩が3枚で羽生王位の先手に決まった。そして戦型は、横歩取りに進んだ。

それは…今年何度も羽生王位が苦しみ、負けを積み重ねた戦型で。

チラリと名人戦第5局が頭をよぎって、少し口元に力が入る。

「心配しなくても、大丈夫ですよ」
振り向くと菜々さんが、隣でほほえんでいた。

「確かにしばらくの間、羽生さんは横歩取りに苦戦していました。でも、回数を重ねるごとに確実に内容が良くなってきています」
第4局も混戦でしたが勝ちましたし、と付け加える。

確かに、最近の将棋は、春と内容はかなり違っている。作戦負けが次第に減り、終盤に後手玉は広くて逃すパターンも見なくなった。
全体の研究が進んだのもあるのだろうが、羽生王位が△7二銀型に対する感覚を掴んだような気がする。

 「その修正力が、羽生さんの強さの一つですねぇ。新山崎流やゴキゲン中飛車でも、新しい形で良いところなく負けた将棋って、あるんですよ。…でも、真っ向からぶつかって理解して、自分のものにしていく。ときには相手側の局面を持って指したりもしますしね」
確かに王位戦で藤井九段の角交換四間飛車と戦った直後、王座戦で自身が採用した話は有名だ。

「おそらく、ほぼ互角の序盤になると思います」

2日制特有の、ゆっくりとした時間が流れていく。

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△3三角   ▲3六飛   △8四飛 ▲2六飛   △2二銀   ▲8七歩  
△5二玉   ▲5八玉   △7二銀 ▲3八金   △1四歩   ▲4八銀  
△1五歩   ▲7七角   △7四歩

 

 序盤は特にすることもないので雑談が主だが、菜々さんの独壇場だった。

「森けい二九段が42歳で谷川会長から王位を奪取したとき、『オジサンの逆襲』と言われたそうです。木村さんも43歳で、『将棋の強いおじさん』とも言われていますねぇ。
……でも、羽生さんも明日で46歳ですから。タイトル保持者の方が更に年上というのもすごい話ですよ。おじさんと呼ぶ気にはなれないですけどね」

『ウサギおじさん』と言われても、ウサミン星人のナナは恐縮するばかりですよ…。と頭を抱えていた。

……気にするところはそこじゃないと思う。

 

 後手の木村八段が選んだのは、△1五歩型。このあたりは専門家ではないけれど△1五角と出る変化が消える代わりに、この端が詰みに関わるような変化もはらんでいて怖いところだ。

そこで先手は▲7七角と上がって持久戦をめざすが、動きたい後手は△7四歩からこの角を目標にしてくる。前例はあるものの、先手が良い印象ではなかった。

「先手に工夫があるんでしょうけど…?」
少し首をかしげながら菜々さんが呟く。

それは、すぐに現れた。

 

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▲8八銀   △7三桂   ▲3六歩   △1六歩   ▲同 歩   △7五歩
▲同 歩   △8五飛   ▲2五飛   △7六歩

▲8八銀、▲3六歩。ここで前例がなくなった。

多くが▲6八銀と上がるところで、8八にあえて動かす。 確かに8筋の守りは厚いし、△5五角のような手を消している。でも……

 「壁形、ですよねぇ……」
左辺への逃げ道がなくなった。
戦いになった後に終盤で損な変化が多くなるので、棋士は避けることが多い。
だからこそ、▲6八銀が多数派だったのだ。

後手陣はほぼ最善なので、△1六歩から攻勢をとる。このあたりは△8六歩や△7五歩、△6五桂のような手の組み合わせもあって難しい。
木村八段はすぐには斬り合いにせず、△8五飛から攻めの矛先をずらす。

△7六歩の局面で羽生王位が封じ、1日目は終了となった。

「40手で封じ手…昔のタイトル戦みたいでいいですねぇ」

 菜々さんが嬉しそうに呟く。

研究が進んだ現在では、1日目にかなり手が進むことも多い。
ただ本局は序中盤の折衝だけで形勢が大きく動きかねないので、長考が続いたのだろう。

 

封じ手予想は角を逃げる1手だが、普通は▲6八角か▲8六角だ。その後、活用できるかが問題になってくる。

ここで▲5五角という手が指摘されたときは、驚いた。確かに、△7五飛としても▲3三角成で先手が良い。

「羽生さん、▲5五角みたいな手は好きですよ。たぶん指すでしょうねぇ」

結論を出せるわけではないので、ここで1日目は解散になった。

帰るときの菜々さんは、やっぱり少しだけ小さく見えた。

 

2日目、日付が変わった頃から羽生王位の誕生日を祝う声が沢山流れた。

ただ、それと勝負は別だ。いよいよ全てが決まる。

 

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 ▲5五角

封じ手は▲5五角だった。当てた菜々さんが、ニコニコしながら胸を張る。

「昔、羽生さんは△5五馬という好手を指しているんですよ。NHK杯で谷川さん相手でした。終盤の一手とはいえ、驚きですよねぇ…。羽生さんがまだ若くて、丸い大きな眼鏡を掛けてる時代です。

 (参考図 第38回NHK杯谷川ー羽生 戦)

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…………あ、棋譜デミタンデスヨ!?」

……今の発言については、何も言わないことにした。

 

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△同 角 ▲同 飛   △3三桂   ▲5六飛   △6四角   ▲3七桂  
△2五桂 ▲4五桂  

飛車を5筋に回って玉頭に圧力をかけて、▲3七桂と跳ねる。
△2五桂▲4五桂と跳ね違えて、昼食休憩になった。先手は、自然な手を積み重ねている。

形勢はおそらく…先手が互角以上だろう。

 

一緒に観ていた流れでお昼の菜々さんと同席した。
会話の話題は、木村八段の話になった。遠くを眺め、思いだすように話しだす。

「木村八段は、棋士になったのは早くありません。むしろ23歳というのは遅いです。原則、満26歳で奨励会は退会ですから。羽生さんが七冠を達成したとき、木村八段はまだ三段だったんですよ。
中座七段の昇段劇…あのとき最終局で昇段を逃したのも、木村八段です」

その言葉には、驚きを隠せなかった。『奇跡』とすら呼ばれる、奨励会三段リーグ最終局。
棋士になれなかったら引退という対局で競争相手の3人が揃って負け、順位の差で中座三段が昇段を決めた。

「その競い合いの中には、今泉現四段もいました。やはり、1勝の差で昇段を逃しています。その後、年齢制限で退会されたんです。棋士になるということは、白星一つが人生を左右するということです」

奨励会の規定は、知っているけれども遠い世界のように思っていた。

…でも今戦っているトップ棋士がその渦中にいたという事実は、勝負の世界の厳しさをまざまざと見せつけられるようだった。

 

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△6二金   ▲4六歩   △7五飛   ▲2六歩

 

昼休が開け、再開の一手は△6二金だった。受けるならこの一手で、この金銀が中住まいと逆ながら耐久力があるのも△7二銀型の優秀なところでもある。

 しばらく応酬が続いて、先手がどう攻めるかといった局面。

▲6六角のような直接手が見える中、羽生王位の手は▲2六歩、僻地の桂取りだった。

「▲6六角とかなら、木村八段は全力で受けに回ったでしょうねぇ。先手は壁形ですから、反撃が入ると薄いです」

でも、この手は羽生王位の手です、と続ける。

「▲2六歩自体は、ほぼ手渡しのような手です。…でも、それで大丈夫とみているんですね。この緩手ギリギリのラインで、相手の力を利用して戦うのが羽生流なんですよ」

 後手も動かないと桂を取られるので、ここで攻めるしかない。

終盤の入り口が見えてきた。

 

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△4五飛 ▲同 歩   △1九角成 ▲4四歩   △4六桂   ▲同 飛  
△同 馬 ▲4三歩成 △同 金   ▲4四歩   △同 金   ▲2一飛  
△1三馬▲5六桂

 

後手は飛車を切って馬をつくる。先手は勢いを利用して▲4四歩とコビンを攻める。
華々しい斬り合いになった。

 △4六桂は先手の急所で、逃げる手は耐えきれない。▲同飛で駒損ながら手番を握った。

ここから、先手の猛攻が始まる。

▲4四歩では▲2一飛が有力視されていたけれど、これも利かしではある。損得がはっきりしないところで、難しい。

 吊り上げた金を狙って▲5六桂。金をどこに逃げるか……。

 

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△5五金が中継に示されたとき、叫び声が上がった。

いや、誰もが驚いた一手だった。薄い4筋の守りを放棄したのだ。

 「あぁ…いや、これは……」

菜々さんがうめくように頭を抱える。しばらくして、ゆっくりと口を開いた。

「木村八段は、この手に全てを賭けましたね」

断言するように力強く言い放つ。

 「上部を抑えて▲3四角を狙う▲4四歩は有力ですけど、△3一香から△1二馬で飛車を殺す手があります。飛車が消えれば後手玉は8筋に逃げ出す余裕が生まれますね。

 

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▲4四歩以下 
△3一香 ▲4三角 △5一玉 ▲3二角成 △1二馬 ▲2二馬
△2一馬▲同馬△1八飛

そして、もう一つの狙いは△5六金から桂を入手して△4六桂。これも馬の効きと相まって、駒が入れば先手陣はすぐ崩壊します。▲4四歩を逆用して、先手の攻めを引っ張り込んだわけです。△5五金が通るか、本局はこれで全てが決まります」

変化を並べてみるが、どれも後手玉は薄い。危なくて、とても後手を持ちたいとは思えなかった。

私が苦い顔をしていたのか、菜々さんも苦笑する。

「危ない橋なんですけどね。木村さんは、こうやって勝ってきたんです。 受け将棋にも、いろいろな人がいます。大山名人のように攻防を含みにした受け潰しや、永瀬さんのような自陣に手を入れる徹底防戦、森内さんのような先行逃げ切りの手堅いタイプもあります。 …でも、木村八段の指し回しはどこにも属しません。相手を急かして攻めさせて、ギリギリで凌ぐ。そこから反撃する。 綱渡りのような立ち回りですけど、本人が一番良いと判断して指した結果ですから…それが棋風なんでしょう」

棋士の場合、指す手の見解が同じ局面の方が圧倒的に多い。でも複数の可能性があるとき、判断の違いが生まれることがある。その積み重ねが棋風になるわけだ。

「実際、木村八段は棋士になってから、この棋風で勝ちまくりました。勝率8割3分5厘の記録は、今でも歴代4位です。着実に、一歩一歩、上に昇っていきました」

 先手の指し手が表示され、話が止まる。本線で読んでいた手ではないはずだが、小考だった。

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▲4四桂   △4三玉   ▲3二角   △3四玉 ▲4一飛成

指し手は▲4四桂。金の死角を突きつつ、王手だから△3一香の余裕もない。

でも…この手は上部を抑えていない。

 「……中段玉になりますねぇ」

その言葉通り、△4三玉と上がった。

▲4一飛成の局面で、手番が後手に回った。△4七歩や△1八飛、△6五桂など先手に迫る手段は多い。そして、互いの玉が近く攻防手が出る可能性もある。

ここが、最後の山場になるのは目に見えていた。

木村八段が、長考に沈む。

検討してみるが…後手に活路を見出せない。後手玉は薄く、上下を先手の駒に挟まれている。珍しい形だが挟撃形…と言えるかもしれない。

検討の手が止まる。沈黙を嫌うように、菜々さんが話し始めた。

 「棋士は…将棋を指して生計を立てます。それは、将棋に人生を捧げるということです。そして、その頂きにあるのがタイトルです。何十期も取る人は例外で、1期でも取ればそれは最高の栄誉なんですよ」

その棋戦で1年間、全棋士の頂点に立つ。それができた人は、本当に少ない。

 「2009年ですか、木村さんは勝ちまくって、棋聖戦王位戦の挑戦者になりました。ただカド番まで追い込みながら…あと1歩、届かなかった。このあたりは、美波ちゃんも知っていますよね?」

棋聖戦は、2連敗。王位戦は…3連勝した後の4連敗。

今期の王位戦第6局も含めると、カド番まで追い込みながら7回、チャンスを逃している。

「あの王位戦は衝撃でしたけど…それくらい、羽生棋聖も深浦王位も強かったとも言えます。本当に、わずかな差の中で戦っているんです」

そのわずかな差が、勝敗という結果につながるのだから…本当に厳しい。

 
「だからこそ……『1勝』することはとてつもなく苦しくて、辛くて、重いものなんです」

その苦しみの中で今、対局者は戦っているのだろう。

中継カメラを見ると、木村八段の顔は荒い画像でも分かるほどに紅潮していた。

 

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△1八飛   ▲4三角成 △4五玉   ▲3二桂成 △3八飛成 ▲6五馬  
△4四歩   ▲3八馬   △3七歩   ▲2七馬   △1七金


37分中28分考えて、△1八飛。ここから先、変化する順は少ない。

▲6五馬の開き王手から竜を取られたが、木村八段は諦めない。馬を追いかけて、△1七金。この手には周りの子がどよめいた。

『負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう』

将棋世界で、木村八段がA級昇級を決めた際に寄せた文の一節だ。
本でも取り上げられたことがある言葉で、木村八段をよく表していると思う。
その勝利への執念は有名で、敗勢の中粘り続けて逆転を呼び込んだ将棋は少なくない。

羽生王位が「1手頓死」をしたことは有名だが、相手は木村八段だった。

僅かな可能性があるなら、それに賭けて指し続ける。

指す本人も辛いことだけれど、それよりも白星を求めて足掻く。

棋士というのは…茨の道だ。

 

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▲4九馬   △2八金   ▲4二飛   △5四金   ▲2二成桂 △3八歩成
▲4七銀   △4九と   ▲5六銀打

まで、93手で先手 羽生王位の勝ち

 

▲5六銀で、後手玉は詰み筋に入った。以下は竜を活用して捕まる。

 

18時45分、木村八段の投了。

これで羽生王位の防衛、96期目のタイトルが決まった。

 

対局室を中継するカメラに報道陣がなだれ込み、対局者の姿が見えなくなる。

思わずため息がもれる。観ていたこちらも、なにか重いものから解放されたような感覚だ。


「やっぱり、強いですねぇ…。羽生さんは強いです」

菜々さんが、静かに呟く。

大勝負を横歩取りで押し切ったこの将棋は、羽生善治の復活を象徴するかのように思える。

どこまでも淡々としたその姿は…久しぶりに畏怖の念すら抱いた。

 
棋士は、勝たなければいけません。上を目指すためにも、プロとしてやっていくためにも。『1勝』で、天地の差が生まれる。その重みは、たぶん私たちには計り知れないのでしょうねぇ…」

机に肘をついて、両手で顔を覆う。その目が潤んでいたことに、遅れて気づいた。

 
「みんな…みんな、自分のことで精一杯なんです。それでも、木村さんは周りを気遣います。優しくて、丁寧で、思いやりがあって…そんなエピソードには、事欠きません。もちろん、勝負は結果が全てです。それでも――」

 

「木村八段には…報われてほしかった……!」

 

絞りだすような声。ボロボロと、涙が盤に落ちる。少しして、涙を手でグシグシと拭いてから顔を上げた。

 
「将棋は……残酷です。それでも美しく、魅入ってしまうのだから、困ったものですね」

菜々さんは涙を流しながら…微笑んでいた。

 

終局直後の集材で「シリーズ全体の感想」を問われたとき、木村八段から言葉はなかったそうだ。

その沈黙には、色々なものが詰まっていたのだろう。それは、私たちが語ることなどできない。

 
解説会場では木村八段はしばらく隅にいたそうだが、促されて感想戦をしたという。
それも、延々と。
対局直後で、感情に任せて早く切り上げても咎める人はいなかったと思う。

でも…最後まで並べ、いつものように冗談で笑いをとっていたそうだ。

 

木村八段は、どこまでも優しい人だった。

 

 その1勝は残酷なまでに大きい。苦しみや…時には痛みすら伴うこともある。

でも――

 

こんな勝負をまた観たいと…そう思った。

 

 

 

 

(了)