安部菜々の徒然観戦 一局の将棋 一回の人生
ずっと昔、学校の図書室の片隅で埃をかぶった本を見つけたことがあります。
タイトルが気になって開いてみると、貸出カードは白紙のままでした。誰がいつ何のために買った本なのか、今でも分かりません。
そこには棋士の生きざまが鮮やかに描かれていて……夢中で読みふけったことをよく覚えています。
将棋界で「老師」と呼ばれる有名な方著書だと少し後に知るのですが、それはさておき。
本の中の時間…羽生世代が新人棋士として登場し、その才能がまだ理解されていなかった時代。
中原、大山、米長、内藤…今は見ることのできないトップ棋士がしのぎを削る中、その名前もA級棋士として君臨していました。
加藤一二三九段。30年も前の話なのに、本の中でもベテラン棋士でした。
2017年 1月20日 第88期 棋聖戦二次予選
飯島栄治七段―加藤一二三九段 戦
この対局の前日、順位戦の規定によって加藤九段は引退が決まりました。他の棋士の勝敗によって降級点が確定したのですが、その日の夜は様々な報道や反応が流れました。
77歳を超え、現役棋士最年長記録を更新。藤井聡太四段との対局もあり、世間が注目していたこともあります。…でも、それを抜きにしても、あまりに大きな出来事でした。
戦後の将棋界、そのすべての時代を戦い抜いてきた方です。「いつかは来るもの」と覚悟はしていたつもりでしたが、それでも…ショックです。
対局予定は前々から決まっているとはいえ、翌日に対局というのも何という巡りあわせでしょう。朝から報道陣が押しかける、異様な雰囲気の対局となりました。
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △2三歩 ▲2八飛 △3四歩
▲3八銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛 ▲8七歩 △8四飛
戦型は、相掛かりに。居飛車党でも指す人が限られる戦型ですが、お互いに得意としていますね。
飯島栄治七段はB級1組在籍の棋士で、非常に手堅い棋風です。昨期B級2組から逆転昇級を決め、『鬼の棲家』を戦っています。
事前に勝敗を語るような野暮なことはしませんが、いまの順位戦でいえばそれだけ大きな差があったんです。
盤の上では対等ですし、事前の勝敗は関係ない。……言うだけなら簡単ですが、本局は加藤九段がそれを身をもって示すことになりました。
▲2七銀 △7二銀 ▲3六銀 △9四歩 ▲9六歩 △7四飛
加藤九段は14歳で棋士になり、18歳でA級に上がりました。
「神武以来の天才」(『じんむこのかた』と読みます)と言われたわけですが、これは本当に偉業としか言いようがありません。(藤井四段が、ノンストップで4年連続昇級するようなものです)
まだ戦後まもない時代ですから、データはおろか今のような「定跡」はほとんどありません。己の感覚と読みだけが武器となる世界だったわけです。そんな中で、加藤少年は他の棋士を圧倒するだけの力がありました。
相掛かりといえば、昔は▲2六飛と構えてひねり飛車や中原流▲3七桂、塚田スペシャルといった形に進むことが多かったですが……最近は▲2八飛と引く形が多いですね。
飛車を狙われにくく、攻めは棒銀で手になるようです。
端歩を突き合うまでは、よくある形ですね。ここで△7四飛が加藤九段の趣向でした。狙いは▲7六歩の牽制です。
▲6九玉 △8三銀 ▲7六歩 △同 飛 ▲2二角成 △同 銀
▲6五角 △7四飛 ▲同 角 △同 歩 ▲8八銀 △7二銀
▲7七銀 △4二玉 ▲4六歩 △7三桂 ▲5八金 △3三銀
▲4七銀 △6四歩 ▲6六銀
「加藤一二三は大天才である」
かの大山名人が自著の中で書いた言葉だそうですが、加藤九段ご自身もいたく気に入っていらっしゃいます。それだけ、認められていたわけです。
しかし、18歳A級を達成の後、名人を奪取するまでには22年もの歳月を要しました。
当時は『大山無敵時代』とも言うべき状態で、加藤九段のみならず多くの棋士がタイトルを阻まれました。中原十六世名人の時代になってから、悲願の名人奪取を達成します。
翌期に谷川現九段が挑戦するのですが……3人の永世名人(有資格者)との名人戦、あまりにも壮大な話です。
△8三銀に対して強く反発し、▲6五角で両取りが掛かりました。
先後ともに妥協できない手順で、作戦負けと紙一重の応酬が続きます。
飛角交換になって先手は持駒の飛車、後手は歩得と角二枚の持駒が主張です。
互いに、低い陣形で整備が続きます。ただ駒を前に伸ばしやすいのは先手で、▲3六歩のような自然な手の積み重ねで攻勢がとれます。
逆に後手は金銀を動かすと飛車打ちがあるので、角桂で手を作りにいく必要がありますね。
局面を収める方針で指す先手に対して、加藤九段の感覚が光りました。
△8四角 ▲7七桂 △8八歩 ▲同 金 △6五歩 ▲同 桂
△同 桂 ▲同 銀 △6六歩 ▲同 歩 △同 角 ▲7八玉
△3九角 ▲3八飛 △5七角引成▲6七歩 △8八角成 ▲同 玉
△7五馬(下図)
新春お好み対局という企画で、今は亡き米長永世棋聖と加藤九段が解説をしたことがあります。しかし、加藤九段が示した手がなかなか当たりません。
「あなたはね、将棋の最善手を求めてる。私はこの人間ならどう指すかということを言ってる」
この米長棋聖の言葉ほど、正鵠を射たものはないでしょう。
昔、棋士は勝負師としての面が重視されていました。大山名人や米長棋聖の「泥沼流」などはその代表です。
加藤九段は対照的で、盤面しか見ていません。盤上の最善のみを求め、一手に7時間かけた話は伝説です。中盤で時間が切迫した対局もままあります。
その姿勢は、逆転負けが多いことと無関係ではないでしょう。将棋が中心であるゆえに生まれたトラブルやエピソードも数えきれないほどあります。
しかし、最善を求め続けてきたからこそ情熱を失わず、今まで棋士として戦ってきたともいえます。
図の△8四角。茫洋とした位置に角を打ったようにしか思えませんが、これが好手でした。
続く△8八歩が継続手で、これで先手困っているんですね。この3手は、紛れもなく加藤九段の将棋です。
ゆっくりした流れにしたい先手は必死に受けに回りますが、加藤九段の流れるような攻めは止まりません。垂れ歩を効かせた効果で△6六同角が金に当たり、△3九角から馬をつくって△7五馬が絶好の位置です。
3九の角を成るのが大事なところで、△5七角上成だと▲3九飛と取られます。これは負担にさせるはずの飛車を捌かれてしまって後手も嫌なところです。
▲5六銀上 △7三桂 ▲7七桂 △8六歩 ▲同 歩 △6五桂
▲同 銀 △8六馬 ▲8七歩 △7九銀 ▲同 玉 △7七馬
▲7八飛 △9九馬 ▲6八玉 △7三桂 ▲6四銀
数年前、加藤九段は1000敗という記録を達成しました。
一見、不名誉な記録に思えますが…将棋界において、負け数は増えにくいものなんですね。トーナメントは負ければそこで終わりですから、番勝負やリーグ戦を数多く戦わなければ成し得ません。
もちろん勝ち星も大記録で、ここまで1323勝は大山名人、羽生三冠に次いで歴代3位です!
……歴代2位の方が、未だ542敗という事実は例外と考えたいですね、ええ。
局面は後手良しとはいえ、切れるかどうかギリギリの攻めです。例えば▲7六歩のような手が間に合ってくると、駒損の後手は勝てない流れになってしまいます。
△8六歩を効かせてから銀を取り、玉を下段に落とす。自陣飛車の懸命の粘りですが、香車を取り返した局面では後手の2枚換えで駒得になっています。
控室では△6二香が示されていましたが、▲6四桂と打たれるとぼやけてしまいます。加藤九段は△7三桂でした。
この銀は先手の反撃の拠点なので▲5六銀とはできません。▲7四銀と歩を取るのは、△7七歩の切り返しがあります。
▲6四銀は5三の地点を睨んでいて嫌みに思えるのですが、以下の手順も加藤九段は冴えに冴えます。
△6五桂 ▲6六銀 △7七香 ▲同 銀 △同桂成 ▲同 飛
△6九金 ▲7八玉 △8九銀 ▲6九玉 △7七馬(下図)
ここ数年、加藤九段はテレビに出演されることが増えました。「ひふみん」との愛称で親しまれていますね。
棋士になられてから60年以上。その実績や凄さがが十分に伝わっていない気も少しだけ感じますが…ネットを含め、棋士として将棋の普及に努める姿勢は一貫しています。
既に後手優勢ですが、加藤九段の攻める姿勢は揺らぎません。
打った桂馬を跳ねる。この活用が一気に決着をつける好手でした。
銀を打って受けますが、△7七香と温存した香が効果を発揮します。銀を手に入れて、△6九金から△8九銀で大技が掛かりました。飛車を取った局面では、後手勝勢です。
ここまで簡単なようですが、「盤上この一手」を選び続けた結果なんです。少しでも緩めば、飯島七段も咎めることができたでしょう。その余裕を与えない加藤九段の攻めが凄まじいのです。
たくさん駒を渡しましたが、後手玉はまだ詰みません。▲5三銀成は怖い筋ですが、取らずに△3一玉と引くとほぼゼット、絶対に詰まない形です。
だから余裕を得るため必死に受けに回る先手ですが、飛車打ちが激痛です。桂馬を取った手が更に飛車取りで、先手はどうしようもないんですね。
▲7九香 △4九飛 ▲5九桂 △8七馬 ▲7八歩 △2九飛成
まで98手で後手の勝ち
ここで、飯島七段の投了となりました。
以下は飛車を逃げるしかありませんが、△6八歩の手裏剣があります。
▲同玉は△8六馬が王手銀取りですし、△同金にも▲5六桂や▲4七桂が激痛です。攻防ともに見込みなし、ですね。
感想戦では△8四角で先手は作戦負け気味で、▲2二歩と攻め合う以外に疑問手はなかった…とされました。
加藤九段は、これで最年長勝利記録を更新しました。
終盤からずっと、ファンは興奮し、歓声を上げました。
棋譜だけみれば、後手の完勝です。タイトル戦でなければ、二転三転した大熱戦でもありません。
取り上げられなければ、数多の棋譜の一つとして、埋もれていってしまうような、そんな一局です。
……でも、その一局は沢山の人の心を動かしました。それは、一生をかけて戦い抜かんとする棋士がいたからです。
人が与える感動というのは、確かにあります。それは将棋でも、スポーツでも……アイドルでも、変わりません。
真摯に向き合う姿勢が美しいと、素晴らしいと感じられるなら。それはきっと、幸せなことなのだと思います。
『人生は一局の将棋なり、指し直す能わず』
アマ高段だった作家、菊池寛氏の言葉です。冒頭の本のタイトルも、これが由来だとか。
将棋界を描いてきた「老師」こと河口俊彦八段は、今はこの世にいません。もし、この一局を観ていらしたら…どんなことを書いたでしょうか。
…読んでみたかったですねぇ。
まだ、加藤九段の対局は続きます。次は佐藤名人との対戦ですし、予定された対局は何局も残っています。そして公式戦を退かれてもイベントや普及といった活動は続けると、ご本人が公言していらっしゃいます。
その情熱は、未だ衰えていません。
加藤九段は、棋士としての人生を歩み続けるのでしょう。
ただひたすらに、最善手を求めながら。
(了)