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とある事務所の将棋紀行

将棋の好きなアイドルが好き勝手に語るみたいです。

二宮飛鳥と観るセカイ  偶像の再構築

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やあ、待っていたよ。ようこそ、ボクらの約束の場所へ。

フフッ、君が思うように、ここはそんな大げさな場所じゃない。電子の連なりが生みだした僅かな空間さ。それ以上でも、それ以下でもないさ。
でも、そんなことはどうだっていい。大事なのは君がこの空間を見ていること、それだけなのだからね。
本来なら、こういった仕事はボクではなく他のアイドル達が担当するはずなのだけど…みんな忙しいみたいでね。こうして案内を務めることになったのさ。よろしくお願いするよ。


さて、今回の内容だが……ボクは解説が上手いわけでも、情熱がこもった観戦記が書けるわけでもない。だから、ボクはボクなりのやり方でこの空間に色をつけるとしよう。

 

これから語るのは、すでに幕が引かれてしまったセカイ。

皆の記憶からは少しずつだが風化してしまっている、あのシリーズを振り返ってみようと思う。
普通は1局ごとに解説するのが筋というものだろうが…、この番勝負に関しては一つの流れで観測してこそ、初めて見えてくるものもあると思うんだ。

さぁ、そろそろ始めようか。これから観てもらうのは恐ろしく深く、難しく、美しい激闘の記録だよ。

 

 

第60期王座戦 渡辺明王座 対 羽生善治棋聖、王位

 

もう、5年以上前のことになるのか。皆の記憶が薄れるのもうなずける。

少しばかり、背景をなぞっておこうか。

羽生王座が『無敵王座』として君臨し続けたことはあまりにも有名だね。19期連続の在位は、破られるイメージすら湧かない大記録さ。
ボクが生まれる前から王座だったわけで、その長さは想像することさえも容易じゃない。王座を奪取した相手が福崎文吾九段…と言っても、ピンとくる人は少ないと思うよ。
うちの事務所でも、よく知ってる人は少ないだろう。川島さんや、菜々さんくらいかな……?それくらい昔の話さ。
6年連続ストレート防衛、19連勝……途方もない数字と共に、無敵王座・羽生善治という偶像は強固なものになっていた。

でも、記録はいつか止まるもの…という言葉もまた真理さ。第59期王座戦では渡辺竜王を相手に3連敗で失冠。連勝記録どころか、連覇まで止まってしまったわけだ。
このとき羽生さんは既に40代。春に名人を失冠し、この王座戦で2冠にまで後退した。

「世代交代の波が来ているのではないか」……そんな言葉すら囁かれる事態になっていたね。まぁ星に少し黒が混じっただけで「羽生衰えた」などと言われてしまう人だから、それ自体はさして気にすることではないのだけどね。
そもそも、二冠で「衰えた」とはどこに基準をもって語っているのだろうね?


ファンからすれば「羽生王座」という肩書はとても大きなもので、その偶像が瓦解した衝撃は非常に大きかったわけさ。

 

ここまでが第59期王座戦、つまり1年前の話だね。普通ならここでセカイが収束して、新たなセカイが幕を開けるのだろうけれど……彼の場合はその「普通」が通用しなかった。

王座を失冠した次の期、第60期の挑戦者決定トーナメントを駆け上がったんだよ。
まるで当然のように勝ち進み、挑戦を決め、舞台に戻ってきた。
一度途切れたはずのセカイが再びつながって、このシリーズがある……というわけさ

それでは、ボクごときの前置きは終わりにしてセカイを観ようじゃないか。

 

 

第1局 (2012年8月29日)

 

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振り駒で先手が羽生さんに決まったのだけれど、戦型は後手の急戦矢倉。

かの竜王戦で新手を出したあの形さ。細かな事は別のセカイだから語らないが、渡辺王座の用意の作戦であったことは間違いない。

優位を築いたのは羽生さんだったのだけれど、頑強に抵抗する後手に対してミスをしてしまう。そして、勝ったのは渡辺さんだった。

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(ここで▲2二歩成ー▲3二とを利かせてから▲4五銀と出るべきだった。本譜は単に▲4五銀だったから形勢が入れ替わったそうだ)

これで前期合わせて4連敗。当時は「ストレート負けの悪夢再び…」という嫌な雰囲気もあったみたいだね。

『無敵王座』の偶像はほぼ消えかかった、とも言えるかな。

 (投了図)

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少しばかり盛り上がりに欠けたまま第2局へと進むのだけど……もし凡局が続くようだったら、ボクはこのシリーズを語ろうとも思わなかっただろうね。

ここから、セカイが色を変える。

 

 

第2局(2012年9月5日)

 

このシリーズで名局賞を受賞したのは第4局(千日手、指し直し含む)なのは周知の通りだが、ボクはこの第2局こそがシリーズの白眉だと思っているよ。

羽生善治その人のセカイが、ここに表れていると感じるんだ。

ここで負ければカド番になる。先手番を落とした羽生さんは苦しいのではないか。そんな中で始まった第2局だったのだけど、4手目から衝撃が走った。

羽生さんは飛車を持って……△4二飛。

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角交換四間飛車。これが後手番になった羽生さんの選択だったわけだ。
指し手自体はあり得る手だし、単に裏芸……ということならばまだ分かるのだけどね。
この一手の裏側には、シリーズとはまた違う場所に物語があるんだ。

王座戦の少し前に、羽生さんは王位戦を戦って防衛していた。
相手は藤井猛九段。そして挑戦の原動力となった戦法こそが、角交換四間飛車だったというわけさ。(藤井システムも健在だったことも記しておこう)
王位戦では角交換四間が3局現れたのだけど、羽生さんは全ての対局で作戦負けをしている。
うち完封負けが1局、完封未遂が1局あった。あの羽生さんがだ。

その優秀性を嫌というほど感じたであろう羽生さんは防衛を決めてすぐ、この第2局で採用したというわけさ。負ければ後がない大勝負で、ね。
ファンも控室も、序盤から盛り上がったわけを理解ってもらえたと思う。

でも、ボクこと二宮飛鳥が二宮飛鳥でしかないように、藤井猛藤井猛羽生善治羽生善治でしかない。角交換四間飛車の優秀性は、藤井九段の卓越した序盤感覚があってこそ輝くものだったんだ。

つまるところ……羽生さんは作戦負けに陥った。

 

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当時は向かい飛車に振りなおして展開するのが主流だったのだけど、早い段階で△4四歩と突いたのが後手の工夫だね。王位戦でも一局、似たような将棋があったから参考にしたみたいだ。
しかし先手の陣形に隙がなく、囲い合いになってしまった。

後手は打開が難しい。対して先手は5筋位取りが秀逸な構想で、手詰まりを打開できる権利がある。

無理攻めしても負けるだろうし、隙を作れば突破されて負ける。

希望の光が全く見えないような状況の中、羽生さんは玉を動かした。

△9二玉

そして…戻した。△8二玉。

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分かってもらえると思うが、この手に価値はないと言っていい。2手損でしかない。先手はいくらでも陣形を整備して攻勢を取ることができるのに、後手の陣形はそのままだ。自ら動いても負けを早めるから、作戦負けを認めてひたすら玉が往復する。「一人千日手」なんて呼ばれたね。

陣形を崩さず待つこと7回連続の玉移動。後に△8二玉と戻るから、計8手損だね。「玉の早逃げ八手の得」なんて古い言葉があるけれど、八手の損が最善とみた感覚は恐ろしいという他ないよ。

先手も同じように待てば千日手だけど、これで千日手に応じる棋士は……おそらくいないんじゃないかな。穴熊に組み替えて攻撃陣を整え、満を持して開戦した。

この対局を観測してた誰もが先手大優勢だと思ったよ。少なくとも、対局者以外はね。


穴熊という囲いは、攻めが続けば無敵だ。なんといっても王手が掛からないのだから詰まされる可能性すら生じない。だからこそ対穴熊側は、「穴熊が勝利する条件」を徹底して崩す必要がある。
ここからの後手の指し回しは穴熊に対する模範演技と言えるだろう。

自陣角を放って隙を作らず、端攻めで先手玉を薄くする。
僅かな隙を突いて焦らせ、攻めを誘い、反動で薄くした玉を仕留める。

要約するとこんな感じだが、これほど現実離れした文章もそうそうないね。誰もがそうやって指せるなら「穴熊の暴力」なんて言葉は生まれないし、そもそもこんなに流行しているわけがないじゃないか。

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(端攻めに対して9六の歩を取った一手だが、これ以降は先手良くなる変化が見つからなかったそうだ。△4三角が端を睨んでいるのも大きいね)

この企画のために、棋譜を確認したのだけど……改めて見ても、訳が理解からない。
最善の手をもって応じなければ、一手で崩壊する…そんな綱渡りの将棋を、羽生さんは見事に渡り切った。

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本局はこのシリーズ……いや、この後の王座戦史にまで、大きな影響を与えた一局じゃないかな。

ここから、明らかに流れが変わる。


第3局(2012年9月19日)

第3局は、またしても後手急戦矢倉。まだ先手▲4六銀・3七桂戦法が猛威を振るっていた時期だから、後手が変化するのも理解はできるけどね。

この将棋は…申し訳ないが、的確に表現する言葉が見つからない。
「中盤すぐに銀桂交換を受け入れて、入手した桂1枚で崩し、攻め勝つ」

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(ここで取った桂を…)

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(ここに設置した。急所という意味なのだろうが…)

……これは、将棋なのかい?少なくとも、ボクが識っている将棋とは、何か違うような感覚すらあったよ。

第2局以降の羽生さんは、一貫して「分からない」んだ。理解することすら許してくれない、まさに羽生マジックだね。いや……種すら見えてこないのだから、マジックという言葉すら相応しくないのか。ボクの語彙にも限界はあるからね……「羽生サイキック」という語を引用させてもらうことにするよ。

 

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この将棋は構想の段階で勝負がついてしまったようだった。……いや、難しい応酬は確かにあったのだけど、気がついたら勝負がついていた。そんな感じだったよ。

そしていつの間にか、羽生挑戦者の2連勝。「強い羽生善治」という偶像が、ふたたび形作られようとしていた。

ゆっくりと静かに、しかし確かな熱を帯びていく中……あの第4局は始まった。

 

 

第4局(2012年10月3日)

 

ここで羽生さんが勝てば奪取、負ければ最終局にもつれ込む。しかし後手番。

当時は先手矢倉▲4六銀・3七桂や、角換わり先後同型富岡流といった形が研究されていた頃で、相居飛車は先手が指しやすい展開になりがちだった。横歩取りも△8五飛戦法の対策が充実してきていて……今の△8四飛型が広まるのは、もう少し後のことだからね。

 だからこそ、第2局の4手目△4二飛は指す価値のある手だったわけだが……本局は2手目に作戦が決まった。

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△3二飛

振り飛車、しかも珍しい2手目△3二飛戦法。
重要な一局で、どうしてこうも違ったセカイを覗けるのだろうね?

乱戦含みの手だが、そこは先手の選択だ。堅実な戦いを好む渡辺王座は踏み込まず持久戦模様になった。ノーマル三間飛車と違って角道が通っているから、先手は穴熊を避けて左美濃に。それを見てから後手は角道を止めた。穴熊でなければ景色はかなり異なってくるからね。
このあたりの応酬も非常に興味深いところなのだけど……ボクよりも相応しい人に任せるべき領域だし、本筋から話が逸れてしまうから先に進むとしよう。

 

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中盤に入ろうとしているこの局面、実は前例があるんだ。20年以上前に、だけどね。村山聖河口俊彦 戦……この名前だけでも、どれだけ昔なのかを理解ってもらえるかもしれない。余談だが、本局の観戦記を書いていたのは河口俊彦七段(当時)だった。戦型は偶然だろうけど……巡りあわせとは不思議なものだね。

もちろん当時は2手目△3二飛戦法はなかった。別の序盤からこの局面に合流したんだよ。ノーマル四間飛車左美濃の定跡らしいが、一部の振り飛車党や菜々さんだったら詳しいかもしれないね。
ボクは詳しくないけど、藤井システムによって姿を消した局面らしい。

後手は2筋に振り直したから四間と三間の差異が消失したわけだが……最前線の将棋がいつの間にか昔の形に合流するというのは、なかなか興味深い話だと思わないかい?

まるでメビウスの輪の中にいるようだ。実のところ将棋がどんな構造をしているのかは、人間には理解できない次元の話なのだろうがね。

この将棋は盤の左側……つまり玉頭戦になることが多いみたいだ。互いに難解な駆け引きの応酬が続くのだけど、先手玉の方が堅い。控室の検討は次第に「先手良し」へ傾き、最終盤に突入した。

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様々な場で語られたこの局面、先手は手数計算がしやすいんだ。後手玉は▲8三飛からの詰めろ。先手玉は詰めろでないどころか、王手を掛けてしのぐ空間すらない。だから先手が負ける要素がないとみられていたんだ。

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そんな中、4分の考慮で指されたのが△6六銀。一手で示せる「羽生マジック」としては、トップクラスに有名だろうね。それだけの勝負手であり、絶妙手だ。

後手玉は▲6六桂と打って詰む変化だから、その地点をあらかじめ塞いでおく意味がある。そして、△8八角成▲同玉△7七銀成からの詰めろにもなっている。いわゆる「詰めろ逃れの詰めろ」なのだけど、互いの玉から離れた位置、しかも歩の頭に持ち駒の銀を打つ…そんなパターンは見たことがない。

これで、互いの玉に対する速度が入れ替わった。▲7八銀上で詰めろは防げるが、受けただけなので難解な勝負になる。先手は残り時間が10分。7分考えたが、▲同歩と取るよりなかった。そして△8九金から千日手が成立。深夜の指し直しが決まった。

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この千日手局だけでも語る人が語れば終わりが見えなくなるであろう、それだけ密度の濃い内容。しかし重要なのは、「△6六銀で千日手」ということだ。終盤どう見ても先手が勝つであろう局面から、死角を突くような一手で千日手に持ち込まれる。単に後手番に回る以上のダメージがあったことは間違いないね。

実は先の局面、△7一金と打っても千日手の可能性はあった。でも勝つ可能性でいえば△6六銀の方がはるかに大きい。
羽生善治」を象徴するような一手であり、だからこそみんなの印象に強く残ったと言えるだろう。それは「厳密にこれが最善手か否か」という問題とは少し違う位置に在る話さ。

 

 

指し直し局

 

30分の間をおいて、22時39分に指し直し局が開始された。
「指し直しに名局なし」という言葉があるのだけど、飛躍した文章に見えて、そこまで的外れではない。深夜に指し直した場合、多くは疲労や興奮で将棋が荒くなりすいんだ。
でも「普通」や「多く」といった語が通用しないシリーズなのは、もう理解ってもらえたと思う。

 

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戦型は矢倉、「銀損定跡」と言われる形になった。中盤に入ってすぐ銀損するという理不尽とも思える作戦だが、先手は攻めを継続できる。
そして先手を持つのは攻めの得意な羽生さんだ。流れるような手順で後手の防衛線を破り、迫っていく。

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(△2八角の飛車取りを無視して▲3三歩。以降も飛車取りを手抜き続け、△1八角成と取らせたのが13手先、既に先手の攻めが切れない局面になっていた)


後手も玉を逃がしながら先手陣を崩しにかかるが、このときの羽生さんはあまりにも強かった。

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この局面、先手玉も相当に薄くなって攻め合いは危ない筋がたくさんあるのだが、ここで……

 

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矢倉を再構築した。これで攻めに専念できる。

その後、いくばくかして先手の勝利、羽生挑戦者が王座を奪還した。

終局は翌日の午前2時2分。9時開始だから、17時間かかったわけだ。それだけの時間、これだけの指し手を紡ぐことができるというのは…尊敬に値するよ。

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この第4局は千日手局、指し直し局ともに名局賞を受賞しているね。内容も結果も、それにふさわしいものだろう。
でも、少なくともボクは一つの賞以上にこのシリーズ全体が……とても大きな意味があった、と思っているよ。

羽生善治という偶像が復活し、より強固なものへ変わっていく過程が、ここに在ったのだ……とね。

 

 

いくぶん長くなってしまったが…どうだったかな?

本来なら1局ごとに区切って観戦記を書くものだが、こうして順に追いかけていくと大きな流れのようなものが見えてきたりするものさ。特にこのシリーズは前期の失冠や直前の王位戦といった要素も多分に影響している。だからこそ、こんな形で紹介させてもらったよ。

棋士の世界は、狭い。同じ顔触れが何年も戦っていくことになるし、同時並行で行われる他の棋戦の影響を大きく受けたりする。いろいろな積み重ねの上に、その一局はあるんだよ。

このシリーズというセカイは完結したけど、ここ以外の場所にも様々な物語が在ることは想像に難くないだろう。

 

最新型の研究や対局が重視される昨今だが、過去の棋譜だって同じくらい大切なものだとボクは考えているよ。
流行や研究は移ろいゆくものだし、結論めいたものが出てしまって指されない形も沢山ある。でも、棋譜の価値がなくなったわけじゃない。棋譜は勝負の一瞬を切り取って、ずっと宝石のような輝きを放ち続けている。
ただ時が経つにつれ、人々がその宝石から遠ざかっていくだけなのさ。


ボクは観測者として、その輝きを届けることができればそれでいい。

 

 

さて…これからは、どんなセカイが紡がれていくのだろうね?
そんな期待を少しだけ抱きながら、筆を置くことにするよ。


また会うことがあったらいずれ……運命の交差点で。

(終焉)