新田美波の定跡解説 角換わり腰掛け銀の変遷
もう、アーニャちゃん、誤解を招く言い方はやめてよ…。
「シト?アーニャ、何かおかしなこと言いましたか?」
だってあの後、菜々さんに追いついて事情を説明しようとしたら、
『問題ないです。ミナミは、攻めと受けをイチからアーニャに教えてくれただけですね』
って。菜々さんの笑顔が更に引きつってたよ?
「ンー、日本語は難しいです…」
…また私が教えるから、ね?
「ズドーラヴァ!ミナミはやさしいです」
菜々さんも最後は分かってくれたみたいだけど……あ、プロデューサーさん、おはようございます。
「ドーブラエ ウートラ!おはよう、ですね」
今日のお仕事は…って、企画書ですか?私の?
『前の講座が好評だったから、企画を通してきた』って……えぇ?
「ハラショー!ミナミの講義、また聞けますね」
ちょっと待ってください、私、まだ何も準備が…
「アーニャ、まだ分からないこと沢山ありますね。ミナミに教えてほしいです」
アーニャちゃんまで…もう。分かりました、引き受けます。
「ミナミ、ルカパジャーチィ!」
アーニャちゃん、プロデューサーさんの前でハグはちょっと…。
「ジャールカ…ミナミは奥手すぎますね。ロシアではハグくらい普通です」
どこで覚えたの、その日本語…。あ、プロデューサーさんすみません、企画書の話でしたよね。
内容と日程はあとで打ち合わせをするからいいですけど…念のため言っておきますがプロデューサー、解説なので衣装はいりませんからね?
露出の高い衣装は、ライブとCDの水着で十分です!
(数日後)
ということで、また講義をすることになりました。よろしくお願いします。
「パジャールスタ、ミナミが先生なら、何度でも講義、受けたいです」
もう…最初くらいちゃんとやろうよ、アーニャちゃん。
今日のテーマは、アーニャちゃんの希望で角換わりについてだね。
「ダー、最近、他のみんながこんな形で戦っていますね。でも、『角換わりの端歩は受けるもの』と教わりましたし、棋士もずっと端歩を突いていました。どうして、この形になったのか分からないです。あと、どう戦えばいいのですか?」
うん、この端歩保留型は新しい形で結論も出てないけれど、ここに至るまでの経緯から話していこうかな。
……あ、そうだ、テーマ書かなきゃ。
講義『角換わりと端歩の関係』
角換わりって銀の使い方で3つに分かれるのだけど、アーニャちゃん分かる?
「ダー、棒銀、早繰り銀、腰掛け銀ですね」
そう、大体こんな感じかな。この中でも、今回のテーマになるのは『相腰掛け銀』ね。
「なぜ、これが人気なのですか?」
うーん…具体的な説明は難しいけど、先手は主導権を握って攻めたいのね?でも、棒銀や早繰り銀は攻めがある意味単調で、最善で受けられると大変なの。
局面でみると分かるけど、飛、角、銀だけの仕掛けになるでしょう?
「ヤー、ほんとですね。」
腰掛け銀は桂馬も活用できるから、攻めの幅が大きく広がるの。
NHK杯の有名な「▲5二銀」とか、昔は棒銀が流行したこともあったみたいだけど、今の先手は腰掛け銀が大多数かな。
「ンー、みんな同じ形なのですか?他の戦型だと、囲いや攻めに色々なヴィリデューカ…変化がありますよね?」
他の戦型と違って、必ず持駒に角があるから、駒組みが制限されるの。隙を見せると角を打たれて馬を作られたりするから、変化は難しいかな。
玉を飛車に近づけていく『右玉』っていう選択肢はあるけれど、特殊な扱いで玉も薄いから省略するね。
さて、相腰掛け銀を説明する上で重要なのが、『先後同型』ね。この局面が軸になって定跡が進化してきた…と言っても過言じゃないくらい重要な形なの。
「先手も、後手も、同じ形をしてますね」
そう、互いに角打ちの隙をみせずに囲って攻めの形を作ると、この形になるのね。
「カローリ…玉はこの位置なんですか?」
昭和中期くらいまでは、ここから▲8八玉△2二玉と囲ってから先手が攻めてたのだけど、
昭和30年代くらいに先手勝ちの結論が出てるね。『木村定跡』って名前で有名なんだけど、後手の投了まで定跡化されてる定跡ってことで有名かな。
「ダーティシトー!そんなにはっきりしているのですか?」
細かな手順は省略するけど…
・玉を上がると、飛車の攻めを直接受けてしまうこと
・端攻めの効果が増してしまうこと
・▲4一角の隙があること
これが後手にとってマイナスで、先手の攻めを受けきれないの。だから、△3一玉の形の方がいいというわけ。
「ミナミに攻め倒されるのですか…大変そうですね」
定跡を並べやすいから、私が先手側にいるだけだからね?
…そうなると、『先手が▲8八玉と上がった瞬間に仕掛ければ逆に後手が勝てるのではないか』という話になって、先手も▲7九玉のままになる。
こうして、先後同型はこの局面になったの。羽生世代が棋士になったときには既に指されていたみたいだね。
「そんなに古い形なのですか」
その後、角換わり腰掛け銀の代名詞になったんだけど、難しい変化ばかりで…。最終的に「先手勝ち」だろうという評価が出たのが2011年の羽生―深浦戦ね。
この対局の変化で一直線に攻めたとき、最後に先手がギリギリ詰まないという研究が出たの。局面はこんな感じなんだけど。
「ミナミ、今日は手順はやらないのですか?」
50年以上の歴史があるから変化も多くて、説明するとキリがないのね。それだけでこの講座が終わっちゃうかな。
あと、昔の将棋を語るなら適役の人がいると思うし…。
「シト?」
とにかく、ここでずっと続いた【角換わり=先後同型】が崩れてしまったのね。
そうなると後手は困っちゃうわけ。ちょっとホワイトボードにまとめると、
<2手目△8四歩問題>
相居飛車戦で初手▲7六歩に△8四歩と突く
→先手は矢倉か角換わりかを選択できる
→先後同型で勝てるから、先手は角換わりを選択する
→後手は、△8四歩と突けない
居飛車の後手で狙える戦法ってこれ以外に横歩取りと一手損角換わりくらいだから、とても大変な事態になったのね。
現に、この時期の後手で2手目△8四歩と突く将棋はかなり少ないの。
「そんなことがあったんですか。将棋って、突き詰めると怖いですね」
…少し、異常な世界かもしれないね。
でも、後手で作戦が限られるっていうのは、勝たないと生計が成り立たない棋士にとって深刻な問題で、ここから「角換わり後手番」の模索が続くのね。
具体的な対策で生まれたのがこんな感じ。
<角換わり後手の対策>
・△7三歩型…同型で弱点だった桂頭を何とかするため、桂馬を跳ねない。しかし反撃に乏しい。
・△6五歩型…△6四角をみせつつ、先手の攻めを牽制。千日手狙い。手待ち合戦も。
・△7四歩型…反撃の味をみせる。ただ、▲2八角や▲6四角で飛車を狙われる筋も。
・端歩保留型…9筋を突かずに先攻を狙う。最新型。
例外
・一手損角換わり…飛車先を突いていないから、△8五桂の反撃がある。ただ、先手は早繰り銀や棒銀が有効になるので全く別の将棋になる。
今の角換わり腰掛け銀はいろんな形があって分かりにくいけれど、どれも
・いかに先後同型を避けつつ、勝負に持ち込むか
という方針で一致しているわけ。順番に説明するね。
・△7三歩型
この形自体は中原十六世名人が指されているそうだから昔からあるのだけど、同型の苦戦を経てまた復活した形になるの。
同型の将棋では、攻めの準備で跳ねた桂馬の頭を狙われて先手の攻めが続いたから、弱点をみせないで戦う方針ね。
「後手のスロバストゥ…弱点が見えませんね。先手はどうするのですか?」
うん、下手な攻めは通用しない形なんだけど、後手は桂馬がまったく働いてないから攻めることができないのね。
だから、先手は攻めの準備を整えて、一番いいタイミングで仕掛ければいいというわけ。
後手も穴熊に組み換えたり色々工夫をするのだけど、端攻めに遭ったりしてどうも上手くいかない印象があるみたい。
「主導権、先手にありますね。ミナミに一方的に攻められるのは大変です」
…アーニャちゃんがいる後手側からすると、『先手の攻めを切らさないと勝てない』というのが大変なところかな。
いいタイミングで△6五歩とか、△7五歩みたいに反撃できないの。桂馬を跳ねる余地がないから。
「ンー、後手が大変そうにみえてきました」
うん、だからこの形は今はあまり指されていないね。次の形を見てみようか。
「ダー」
・△6五歩型
これも守り重視なんだけど、『仕掛けすら許さない』っていう強い主張の形かな。
「後手が位をとってますね。…ちょっとヘンな形です」
さっきの△7三歩に加えて6筋の位を取ってるけれど、案外あなどれない形でね、この形の究極の狙いは千日手なの。
「ヴォフタディーニャ…繰り返し、ですか?」
うん。もし普通に▲4五歩と攻めようとすると△6四角の反撃が厳しいのね。▲4七金で守っても△4五歩のときに桂馬で取れないし…。
「先手の攻めがニェウダーチャ…失敗ですね」
うん。だから先手は▲6八飛として反発をみせたり、▲6九飛~▲2九飛としてもう一度▲2八飛の形に戻したり、パズルみたいな手待ちをして、後手の最善型を崩しにくのね。すごく難しいから省略するけど、上手く仕掛ければ先手もやれるという認識になるわけ。それだったら…
「それだったら?」
わざわざ主導権を放棄する意味がなくなっちゃうのね。
「『元も子もない』、ですか」
そう、千日手なら先後入れ替えで指し直しになるけど、「がんばって千日手」っていうのも面白くないし…。
というわけで、「反撃や仕掛けを狙える形で指せないか」ということになったの。次がその形ね。
・△7三桂保留型(3三銀早上がり型)
「今度は△7四歩を突いていますね?」
そう、これだけで全く違う展開になるのが、将棋の怖いところかな。
この形の利点は、
・△6五歩や△7五歩といった反撃があること
・桂頭を狙う仕掛けがないこと
この二つが一番大きいんだけど、もちろん問題点もあって、
・後手の飛車がいじめられること
これに尽きるかな。
「ンー、どういうこと、ですか?」
例えば、△6五歩の瞬間に▲6四角が飛車取りになったりするの。
(以下△9二飛▲4五歩△同歩▲同桂△4四銀▲6五歩などで攻め合い)
▲2八角と打っておいて、▲4五歩の攻めを厳しくする手も数年前は指されていたね。
「『自陣に角を打つ自信』…ですか?」
…それ、だれから聞いたの?
「楓さんが、言ってましたね。勉強になりました。他にも…『角交換には、好感がもてる』とか。」
アーニャちゃん…楓さんの日本語だけ覚えちゃダメだからね?
…他にも△2四銀から先手の桂頭を狙ったり、いろいろな手段が先手にも後手にもあるんだけど、後手の苦労が多いことには変わりないの。
『正確に先手の攻めを受け止めて、薄い自玉に気を付けながら反撃して勝つ』
って、とても大変なの。特に、終盤は持ち時間も少ないから後手が『勝ちにくい』ことは確かね。
「実戦的に、ということですか」
そう、でも普通に指すと先手が一手早いわけだから、先に攻めるには何かを省略しなくちゃいけない。そこで生まれたのが、端歩保留型というわけ。
まだ未開拓の分野だけど、少しだけ説明するね。
「ダー、楽しみです♪」
・端歩保留型
これは、先手が▲9六歩を突いたときに、端を放置して組み合うということだね。
「この頃、よく見ます。一気に広まったように思いますね」
でも、最初はそこまで重くみてなかったというか…。
先手が端を絡めて手順を尽くしてやっと勝てるような仕掛けを、後手が端を絡めずにやって勝てるのか…みたいな。ちょっと先攻してはいるけれど軽い攻めに見えるのね。
「ダー…確かに、これで先手が一気に負ける気はしないですね」
だから、初期は▲9五歩と突く手が主眼だったかな。
端歩を突きこして、後手の攻めを誘ってる…とも言えるかもね。『攻めきれないでしょう?』ってね。
「アーニャ、分かりました。ミナミの誘い受け、ですね」
…確かに間違ってないんだけど、それだと語弊が…。どう説明すればいいのかな…?
「ミナミ、これで攻めきることはできますか?」
確かに同型の将棋で、先手は細い攻めを手順を尽くしてギリギリ繋いでいたのだけど、この場合は後手の先攻している得がかなり大きいのね。
「シト?」
これまでの角換わりって、『先手が一方的に攻め続けるもの』だったから、先手玉って安泰なの。でも、先攻されると囲いに嫌味がつくでしょ?強い攻めが指しにくくなるってこと。沢山駒を渡したら、自玉が詰んじゃうかもしれないし。
実際、先手が連敗した時期もあるのね。特に、棋王戦のトーナメントで羽生名人が先手を持って負けたり…。
その将棋は、先手玉が右辺に逃げなきゃならなくなって、▲9五歩が一手パスみたいになってしまったのが大きかったの。玉の逃げ道として、機能しなかったのね。
先攻できる得が、かなり大きいって分かってきた感じかな。
「そういえば、ちょっと前に『楓新手』って言葉、聞きましたね。それも端歩保留でした」
それはね、先手が▲9五歩を突かないで攻め合いを選択したときの話なんだけど…、
後手は先攻できるけど、先手も▲2四歩から反撃して難解な攻め合いになるというのが大体の展開ね。
この▲5四銀が厳しくて、以下先手勝ちという結論が出たってところかな。(棋王戦佐藤天ー阿部健戦)
この手順や変化は、他の事務所で詳しくされているから割愛するね。
でも、一つだけ。この▲5四銀を対局で実際に指したのは佐藤天彦八段だから、用語として使うときは気をつけてね。
「ダー、分かりました」
後手も途中で変化できるから難しいところもあるけど、先手の手段は
・▲9五歩と突いて受け身に回るか
・▲9四歩のまま攻め合いにするか
こんな感じかな。今やっている王将戦でも端歩保留が出たし、▲9四歩型で後手が右四間で攻めたり…。まだまだ未解決の分野かな。
今回はいろんな形をみてきたから大変だったかもしれないけど、
『角換わり腰掛け銀は後手が苦労している』
ってことが分かってもらえたら嬉しいな。もちろん、先手を持って正しく攻め勝つのも大変なんだけどね。
棋士からすると、同じ形になりやすくて、研究しやすいことが魅力でもあるみたい。
「ダー、分かりました。角換わりはすごくトンカヤ…繊細ですね。同じような形でも、歩や桂馬の位置が違うだけで別世界です」
そうだね、このわずかな形の違いを把握しながら指しこなしてる棋士の方は本当にすごいと思うよ。
でも、これを全部暗記しなきゃ角換わりが指せないわけじゃないから、気楽に指してほしいかな。まず、将棋を楽しまないと。
「そうですね。アーニャもミナミと指すの、楽しいです」
知識として知ってるのも重要だけど、実際に局面を前にして真剣に読まないと分からないことも多いから、指してみることも大切だね。
巴ちゃんは、ネット対戦をよくやっているみたいだし、自分に合った上達法を見つけるのが一番いいかな。
ということで、今回の講座はこれで終了です。ありがとうございました。
「バリショーエ スパシーバ!ありがとうございました、ですね」
これから、どうしようか。じゃあ、今日は日本語の勉強もやっておこうかな…。
「ミナミ、日本語で、聞きたいことがあります」
ん?何か分からないことがあったら教えて、アーニャちゃん。
「前にテレビで角換わりの解説、観てましたね。そうしたら、『桂』と書かれた駒を持って、棋士が言いましたね。『このカツラを取りたい』って、何度も。どういうことですか?『ケイ』と読むはずです」
ん……アーニャちゃん、その時の解説って誰だった?
「佐藤紳七段と、橋本八段ですね。何か関係があるのですか?」
あるというか、あの二人しかないというか…。
「シトー?どういうことですか?カツラが何か関係ありますか?」
ちょっと言いにくいっていうか…私だって女の子だし…。
「アー、分かりました。自分で調べますね。他の質問ならいいですか?」
それなら大丈夫かな、どんなこと?
「さっきミナミが微妙な顔をした『誘い受け』って、何か別の意味があるのですか?」
え、えーと…きょ、今日のところはやっぱりやめておこうかな、また今度にしましょう!
それではお疲れ様でした~!
ガチャ バタン
「ニェート!ミナミ、逃げないでください。正しい日本語、教えてください。何で穴熊で桂馬を跳ねると『パンツを脱ぐ』って……」
ガチャ バタン
(了)
参考対局
第41期棋王戦挑戦者決定トーナメント 佐藤天―阿部健戦
同 羽生―阿部健戦
第81期棋聖戦第1局 羽生―深浦戦
第63期王将戦第5局 渡辺―羽生戦
第83期棋聖戦第2局 羽生ー中村太戦
その他沢山の角換わり対局
楓新手参考資料
『盤上のシンデレラ ~安部菜々と地獄の検討室~ 第4局
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27631647』
新田美波の定跡解説 矢倉91手組ができるまで
「ミナミ、ちょっといいですか?」
どうしたの?アーニャちゃん
「アー、矢倉の勉強をしていたのですが、これを見てくれますか?」
うん?…矢倉91手組だね。これがどうしたの?
「ダー、そうですが…これ、91手も先まで定跡ですか?ヴィリデューカ…変化できなかったのですか?」
うーん、そうだね…。ここに至るまではいろいろあったけど、ここで説明するには用意も時間も足りないかな。
「そうですか…」
少なくとも、盤と駒を用意して実際に――あ、プロデューサーさん、どうしたんですか?
……『今度の企画はそれにしましょう』?
「シト、どういうことですか?」
~~プロデューサー説明中~~
つまり他の事務所のように将棋で何か企画を…と、ネタを探していたんですか。
「いい考えですね。ミナミにレクツゥィア…講義してもらいましょう!」
アーニャちゃん、いくらなんでもそれは…。私は大学生だから、講義を聴く側だよ?
「アーニャ、ミナミの講義、聴きたいです。ダメ、ですか?」
いや、ダメじゃないけど…。
「じゃあ、やりましょう!」
そんな強引に…ってプロデューサー!『グラビアの衣装で講義しましょう』とか、やめて下さい!アイドルは、コスプレが本業じゃないんですからー!
(数日後、事務所の1室にて)
では、講義『なぜ矢倉91手組は生まれたのか』を始めたいと思います。
「パジャールスタ、よろしくお願いしますね、ミナミ」
こちらこそ、お願いするね。アーニャちゃん。
こんな風に教えるのって初めてだから、ミスコンより緊張しちゃうな。
「ミナミ、今日は先生です。堂々としていいですね」
そうだね、がんばろう!
最初に『矢倉91手組』って、『先手4六銀・3七桂戦法』の定跡ってことは分かる?
「ダー、矢倉で1番有名だと思いますね」
そうだね、実戦例も一番多いんじゃないかな。
「パツシィー・アーンゲル…堕天使のスターリ…鋼の刃の活躍を…」
アーニャちゃん、蘭子ちゃん語とロシア語を混ぜるのやめよ?
「ランコも将棋、強いですね。熊本弁、教えてもらいました」
…続けるね。この局面が重要なテーマになるの。
ここまでにも沢山の変化があるのだけど、何冊も本が書けちゃうぐらい大量に存在するから省略するね。
方針としては後手は角で先手を牽制して、先手はそれを避けながら攻撃の準備をしているところ。
「ここから、どうするのですか?」
ここで、後手の指し手はほぼ2通りだね。…ちょっとホワイトボード使うね。
・△8五歩…先手玉への圧力をかける手。矢倉穴熊に潜られる可能性も。
・△9五歩…穴熊にするなら端攻めも見せる。ある意味欲張りな手。
前者なら、難しくはあるけれどが穴熊の▲9九玉が遠くて、後手が苦労しやすいかな。
アーニャちゃん、それどこで覚えたの?
穴熊は棋士にとっても厄介なもので、矢倉の穴熊は特に普通の矢倉崩しが効かない場合が多いの。普通の矢倉なら詰めろになる筈の手が詰めろじゃなくなったりね。「王手にならない」から。
「パニャートナ、なるほど。だから穴熊を避けたいのですか」
先手の手を制限する意味でも、△9五歩も妥当ね。後手からの端攻めがあるから、先手は穴熊に組めないの。
でもここで先手が攻めようと上の図から▲2五桂とすると、△4五歩と突かれて以下こんな感じで…銀を取られて馬が作られて先手が好ましくないと言われてるのね。
これはこれで、結構難しいんだけどね。
(左から、▲同銀△1九角成▲4六角△同馬▲同歩△5九角▲3七角△同角成▲同飛△1九角▲3八飛△4六角成)
「では、どうするのですか?」
ここで手待ちしたり、色々な試行錯誤があったんだけど、45手目▲6五歩が「宮田新手」で定跡が一気に進歩するの。
これが平成14年…もう10年以上前のことなんだけどね。
「シト、自分から囲いを崩すのですか?プラーウダ リー エータ?」
ちゃんと説明すると長くなるけど…、△8五歩▲2五桂△4五歩から同じように進めると、途中で▲6六角と王手で角を打てるのね。
これが厳しくて、合駒が効かないから△1二玉しかないけど▲1五歩で敗勢になるの。
「ンー、厳しいですね。ミナミにめちゃくちゃにされてしまいます」
…確かに盤の後手側にアーニャちゃんがいるけど、将棋の話だからね?
変化はあるけど、△4五歩と▲6六角の相性が悪い…と言えばいいのかな。
……でも宮田新手に△6四歩も先手に歩を渡しちゃうから上手くいかなくて、後手も固めて待つことになるのね。▲3五歩から仕掛けてこうなるの。
で、この▲1五歩を取るか取らないかが重要なんだけど…。
「どちらがいいのですか?」
うーん、この形の流れをおおざっぱに説明するとね、(ホワイトボードに書く)
「△同歩」期~素直に応接する。しかし、先手の攻めを振りほどくのは容易でなく、別の手段を模索。
↓
「△3七銀」期~銀のクリンチ。ここから91手組へと発展していく。
↓
「新△同歩」期~明快な結論は出ず。
最後は結論があいまいだからあまり触れないけど、こうなるかな。
「シト…△同歩が大変なのですか?まだまだ難しく見えます」
うん、大変だよ。実際、「結論らしきもの」が出るまで沢山の実戦例があるしね。
▲1五歩△同歩に▲6四歩が宮田新手のもう一つの狙いで、▲同角で角を近づけておくのね。
そうすると、飛車を走って▲6五飛と展開する手が生まれるの。
「角を呼び出したから…ですね」
そう。後手も反発してこんな感じ。先手の端も怖いけど、ここで▲1二歩と叩く新手が出るのね。(羽生ー木村戦)
(▲1五歩以下、△同歩▲6四歩△同角▲3五飛△2四銀▲6五飛△7三桂▲6六飛△9六歩▲同歩△9七歩▲1二歩)
このタイミングだと取るしかなくて、その後攻め合ったときに先手の端攻めが厳しくなる。実際、この後▲1三歩が決まって先手が攻め勝ってるね。
この辺りから普通に受けていては勝てないという、認識が広まった感じかな。変化は色々あるけれど。
「ミナミの攻め、厳しいです。息をつくひまもないですね」
将棋、将棋の話だから!
……で、91手組への道△3七銀が出てくるの。アーニャちゃん、この手の狙い、分かる?
「アー、飛車をいじめてますね。ミナミの大切なものが取られてしまいそうです」
アーニャちゃん、言い方…。まあ、飛車をいじめながら先手の桂馬も狙っている手だね。
△3七銀が出た後、後手が何連勝もするのだけど、その流れを変えて91手組のベースを作り上げた対局があるのね。それが羽生―渡辺戦、しかも3局!
「なんだか、すごい話です…」
羽生―渡辺戦は、矢倉の定跡を作りだした名勝負だと思うよ。
先手は忙しいのだけど、ここで羽生さんが▲1五香の新手を出すの。駒損だけど、攻めが続けばいいっていう発想。
対局自体は、後手の反撃に会って負けちゃうんだけど…。
新手って、必ずしも結果が出るわけじゃないのよね。
「そうなのですか…」
でも、それで終わる人じゃない!今度はNHK杯戦準決勝で同じ形に。飛車を見捨てて攻め続けて、先手の快勝!
「スパシーバ!」
でも、後手も改良手順を研究して、1年後、また同じ組み合わせで、同じ戦型に!
「ハラショー、ドラマみたいです」
棋士の世界はドラマばかりだよ、アーニャちゃん。
渡辺さんも後手で研究してきたみたいだけど、先手もそれは同じ事。先に新手を出したのは、去年勝った羽生さんの方だったの。
その後の指し回しも見事で、羽生さんがNHK杯優勝、名誉NHK杯の称号を得るのね。終盤の金合い…で覚えてる人もいるんじゃないかな。
「ニェート。ですがミナミ、これと91手組は違いますね」
それはね、この3局でかなり定跡が進んだのだけど、研究はずっと続いていったのね。そこで、途中のここで羽生さんは馬を逃がしたんだけど「▲3三馬と切ったらどうなるのか」ということになったの。
「ダーティシトー!大駒が全部なくなってしまいます」
うん、このあと、飛車は取り返せるんだけどかなりの駒損の攻めになるね。
飛車を取って、打って、龍を作ってこの局面。
これが91手目になるの。アーニャちゃんが見せてくれた局面と一緒になるでしょ?
「ほんとです。でも…後手の駒台がすごいですね。これで先手勝ち、なのですか?」
一応、そうらしいとは言われてるけれど…この形って、
『先手が最強の攻めをして、後手が最強の受けをした結果』
だから、まだ難しいところは沢山あるのね。
後手は現状詰めろ。上に逃げだせば勝てるんだけど、それが難しいのね。具体的には△4三金と逃げ道を開けると、▲4一竜から攻めが続くの。 決め手はA級の屋敷―渡辺戦で、後手が一方的に寄せられてしまったことかな。
このときに重要なのが、先手玉だね。ずっと攻めだけしてきたから詰みどころか、早い寄せがないの。△8六桂が詰めろみたいだけど、そこから一方的に先手が寄るわけじゃないから…。
「恐ろしいです…」
ほんと…固くて、攻めも激しくて参っちゃうよね。
「ミナミ…将棋の話ですよね?」
ん?…そうだよ?
とにかく、先手は「確実に寄せれば勝ち」だから、分かりやすいのね。
で、どうやら「先手勝ち」らしいという見解に落ち着いたという経緯かな。
「なるほど…そういうことだったのですか」
でも、屋敷―渡辺戦は12年のことだから、宮田新手から10年経って、ようやく一つの大きな山を登ったって感じかな。
ここまでにも変化は沢山あって、△2六銀不成とか、△3八香とか…実戦例も山のようにある。これが絶対の手順じゃなくて、飽くまで一例としてみておくといいかもね。
「よくわかりました。ミナミ、ここまでよく知っていますね」
…私は、実戦とか将棋世界とか、色々なものをみてるだけだから。定跡は、棋士が真理を追い求めて作った努力の結晶だよ。
従来の手順が否定されて、どんどん新しくなっていくけどね。
アーニャちゃんも、興味がある戦型は棋書を買ってみるといいと思うよ。難しい日本語は、私が教えるから。
「分かりました。ミナミはやさしいです」
でも…
「シトー?」
今の実戦ではこの形の大元、『4六銀・3七桂戦法』そのものがほとんど出なくなっちゃったの。
▲4六銀に△4五歩と突く「△4五歩反発型」が優秀とみられて、先手が別の作戦をとることになったのね。
もう、必要ない定跡になっちゃったのかな…。
「そんなことないです、ミナミ」
…え?
「ミナミ、さっき言いました。『定跡は棋士の努力の結晶だ』って。今日みた手順の中にも、いろんなジフノロギー…技術をみることができました。それは、無駄じゃないです。」
…そうだね。ありがと、アーニャちゃん。
「それに今の評価が変わって、また復活するかもしれませんね。アーニャ、分かりました。将棋の変化は広いです。星の数くらいに。分かるのは、ほんのひとかけらです」
うん。本当にそうだね。
…どっちが教わってるのか、分からなくなっちゃった。ふふっ。
じゃあ、今回の講義はこれで終わりにするね、上手くできたかは分からないけど、ありがとうございました。
「スパシーバ、ありがとうございました。ミナミ、また教えてくれますか?」
うーん…また機会があったら、かな。私自信がよく理解してないと教えられないしね。
「そうですか…でも、対局はいいですよね?」
うん。今日はこれから時間もあるし、実戦で練習しようか。
「ダー、楽しみですね」
~翌日~
「おはようございます!ナナ、ピーナッツ入りのチョコ持ってきました!」
「ズドラーズドヴィチェ。おいしそう、ですね」
あ、菜々さん、おはようございます。
「そういえば、お二人は昨日何をされてたんですか?何やら、会議室から荒い息遣いが聞こえてきたんですけど…」
あ、それはですね…。
「アー、ミナミに攻められてましたね。タテからヨコから、息をつく余裕もなかったです。おかげで、アーニャの大切なものがメチャクチャにされてしまいました」
あ、アーニャちゃん?
「あ、そ、そうなんですね!ナナは17歳ですけど、大人の世界には理解がありますから…そ、それではこれで失礼します!」
ちょ、ちょっと菜々さん、誤解ですー!
(了)
参考対局
羽生―木村戦(第77期棋聖戦)
羽生―渡辺戦(第23期竜王戦第2局)
羽生―渡辺戦(第60回NHK杯準決勝)
羽生―渡辺戦(第61回NHK杯決勝)
屋敷―渡辺戦(第71期A級順位戦)
参考:91手組手順
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀 ▲5六歩 △5四歩
▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金 ▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △5二金
▲7七銀 △3三銀 ▲7九角 △3一角 ▲3六歩 △4四歩 ▲6七金右 △7四歩
▲3七銀 △6四角 ▲6八角 △4三金右 ▲7九玉 △3一玉 ▲8八玉 △2二玉
▲4六銀 △5三銀 ▲3七桂 △9四歩 ▲1六歩 △1四歩 ▲2六歩 △7三角
▲3八飛 △2四銀 ▲1八香 △9五歩 ▲6五歩 △8五歩 ▲2五桂 △4二銀
▲3五歩 △同 銀 ▲同 銀 △同 歩 ▲1五歩 △3七銀 ▲3九飛 △1五歩
▲6四歩 △同 角 ▲1五香 △同 香 ▲6五銀 △2六銀成 ▲6四銀 △同 歩
▲3五飛 △2四銀 ▲1三桂成 △同 桂 ▲1四歩 △3五銀 ▲同 角 △1二歩
▲1三歩成 △同 歩 ▲7一角 △2五成銀 ▲4四角上 △同 金 ▲同角成 △3三銀
▲3四桂 △1二玉 ▲3三馬 △同 金 ▲2二金 △同 飛 ▲同桂成 △同 玉
▲8二飛 △3二歩 ▲8一飛成
まで、91手