高垣楓の徒然観戦 私の願いなんて
本局は、あってはいけないものでした。
あまりにも唐突に始まった4ヶ月は、闇のような日々で。
ここに詳しく書くつもりはありませんが、これだけは何度繰り返してもいいでしょう
三浦九段は、無実でした。冤罪でした。
だから、対局に戻ってきました。
言葉というのは恐ろしいもので、取り返しのつかない失敗を犯すこともあります。ですから、この一局を書いていいものか…という迷いは今もあるんです。
それでも、この将棋は、残したいと思いました。無かったことにしたくないと思いました。
そんなわがままな…あってはいけない観戦記です。
2017年2月13日
第30期竜王戦1組ランキング戦
羽生善治三冠ー三浦弘行九段 戦
朝から、対局室にはたくさんの報道陣が集まっていました。ニュースでも流れましたけど…いつものような気持ちではいられませんでしたね。言葉も見つからないまま、ただ黙って観ていました。
駒に触れたのが1週間前…この空白は、あまりにも大きく重いものです。
そしてこれだけ騒がれる対局は、相手にも負担が掛かることは避けられません。
どちらが勝っても、割に合わない…そんな考えすら頭をよぎりました。
対局相手は、羽生善治三冠。いつもはカメラを向けられる側に座っている方ですが、本局は後ろに報道陣が押しかけていました。
初手、▲7六歩。
そして2手目、2分間の考慮。
それはとても長く、重いもので。
△8四歩が指され、ゆっくりと戦いが幕を明けました。
昼食休憩
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲7七銀 △6二銀
▲5六歩 △5二金右 ▲4八銀 △3二銀 ▲2六歩 △5四歩
▲5八金右 △5三銀 ▲2五歩 △4二玉 ▲7九角 △3一玉
▲7八金 △7四歩 ▲3六歩 △7三桂 ▲3五歩 △同 歩
▲同 角 △6四歩 (下図)
序盤の駒組みが一通り終わったところで、昼食休憩になりました。
最近観る形に近いような…それでいて微妙に違う形です。こういった僅かな形の違いを言葉にするのは、「将棋が指せる」こととは少し異なる能力です。
ということで、美波ちゃんに解説をお願いしてみました。
いつもお願いしてばかりなので、苦笑されるかな…と思ったのですが
「『初級者向け』『中級者向け』『有段者向け』でいいですか?」
逆に提案されたのは、少し意外でしたね。
美波ちゃん解説
『初級者向け』
戦型は矢倉戦ですね。後手が左美濃囲いにして、急戦を狙っています。
飛車、角、桂を使って先手陣を攻めることが目的です。最近は増えている指し方で、美濃囲いの堅さを活かして攻めに専念できることが大きいですね。
ただ、微妙な形の違いがあって前例はありません。
『中級者向け』
居角左美濃…と呼ばれる形に近いですが、5手目が▲6六歩ではなく▲7七銀に対する急戦なので実戦は少ないです。後手の工夫は、主に
・5筋を突いていること
・8筋を保留していること
です。このあと△8五歩ともできますし、桂を跳ねる余裕もあります。
対して先手は居玉です。『居玉は避けよ』と言われますが本局は6~8筋で戦いが起きることは明白なので、囲いに行くと戦場に近づいてしまいます。なので保留して、他の駒に手をかけているわけですね。
『有段者向け』
5筋を突いた左美濃急戦は昔からある形ですが、▲7七銀型に対して居角左美濃の発想や8筋の保留を組み合わせたのが三浦九段の工夫です。
対して先手が3筋の交換を急いだところが重要で、この形でも3筋は後手陣の、美濃囲いの急所になります。▲3七桂、▲3八飛、▲3三歩や▲3四歩などで攻め合いの形に持ち込む構想でしょう。
「速度計算がしやすい」という左美濃の優位性を削りにいっている、とも言えます。
ただ居玉なので、今後は先手が神経を使う展開になることは間違いありません。
解説を終えたあと、美波ちゃんは大きく息をつきました。
いつも真面目なことに変わりはありませんけど、今日は少し力んでいるような印象で…大丈夫かと、負担になっていないかと声をかけたんです。
美波ちゃんは苦笑しましたけど、返答は力強いものでした。
「いろいろ、考えてしまうことはあります。でも…指すべき人が、指しているんです。私にできることは、いつも通りに解説して伝えることです」
その迷いなく毅然とした口調に、返す言葉もなくて。
こういったとき普段通りに努めるというのは大切で…とても難しいことだと、痛感しました。
午後
日がゆっくりと傾き始めます。……形勢の方も、少しずつ傾き始めたみたいです。
「流れは後手ですねぇ」
継ぎ盤を挟んで、菜々ちゃんが呟きます。
「2歩持ったところまでは先手まずますでしょうけど、▲2六角がぼやけたような…いや、5筋を突いてますから、引きたくなるのも分かるんです。7筋攻めを絡めて、相当な迫力になりますから」
▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △2三歩 ▲1五角 △1四歩
▲2六角
一手一手、噛みしめるように駒を動かしていきます。
「でも、△5五歩からの手順は後手が一本取った気がしますよ。先手が受けるのは仕方ないですし、▲6七金左も羽生さんらしいですけど…△5二飛で先手の狙いを逆用されてしまった流れです」
△5五歩 ▲6六歩 △5六歩 ▲6七金左 △6三金 ▲7五歩
△5二飛 ▲7四歩 △8五桂
ここまではっきりと言う菜々さんも少し意外でしたけど、それくらい先手がまとめるのは厳しい局面ですね。美濃は堅いですし、居玉を直接狙われている先手が大変なことは間違いありません。
△8五桂に、羽生三冠の手が止まりました。先手を持って何を指すのか、手が見えません。
継ぎ盤が止まると、自然と無言になってしまいます。話題が見つからなくて…ダジャレを言えるような雰囲気でもありませんでしたし。
「少し、昔の話もしましょうか」
空いた時間と沈黙をを埋めるように、菜々さんの話が始まりました。
「三浦九段は、局地戦に強い方です。何度か話題になっているA級順位戦の双玉の終盤戦はあまりにも有名ですけど、ナナは名人戦第二局が強烈に印象に残っていますねぇ」
継ぎ盤を崩して、スラスラと並べていきます。横歩取り△8五飛、新山崎流…何度か見たことのある局面です。
「ここが1日目の封じ手だったんですけど…▲3九金と指すのが自然なんですね。でもそれは三浦九段のワナで、頓死するんです!」
▲3九金 △1九飛成 ▲5三桂成 △5二香 ▲6二成桂 △3九龍(上図)
▲同 銀 △5八金 ▲同 玉 △5七角成 ▲5九玉 △5八馬(下図)
あまりにも鮮やかな…中央の一発で、先手玉が詰む変化。
順位戦もそうですが、恐ろしいほどに深く、正確な読みと研究です。
棋譜を並べながら語る菜々さんの顔は嬉しそうで。
……でも、並べ終わると少しずつ、顔が曇っていきました。
「昔から、こういった計算は誰よりも強い方です。本局で羽生さん相手にここまで押し込んでいるのも、それは三浦九段の実力です」
うつむいた後、笑みを作りながら続けてくれました。
「ただ、この対局には続きがあってですね…先手の羽生名人はこのワナを看破して、▲5三桂成と激しく攻め合ったんです。そして結果は先手勝ち。その手順は定跡にもなって結論を導く土台になりました。羽生さんが羽生さんたるゆえんでしょうねぇ。
どんなに研究してもその先があって、お互いにたった一人で向き合うんです。この勝負だって……」
少しだけ、菜々さんの瞳が揺れて…間が空きます。
「盤の前に座したその瞬間は、対等です。対等でなければいけません。
それが…将棋の素晴らしく、残酷なところなんですよ」
その笑みは、少しだけ痛々しく見えました。
夜
▲7六銀 △7七歩 ▲8六歩 △7八歩成 ▲8五歩 △4四銀
▲5三歩 △同 飛 ▲7三歩成 △同 金 ▲3三歩 △同 桂
▲3四歩 △4五桂 ▲4六歩 (途中図) △5七歩成 ▲同 銀 △同桂成
▲同金上 △5八歩 ▲同 玉 △2五銀 ▲5九角 △3四銀
▲2六桂 (図)
夕食休憩が過ぎて日が暮れても、戦いは続きます。
形勢がだんだん分からなくなってきて、局面が混沌としてきて…。
おかしいですね、さっきと流れが違ってきました。
「△2五銀から、手番が渡りましたねぇ」
どこかからそんな声が……机の下?
「ここですよぉ」
まゆちゃんでした。
「▲7三歩成、▲5三歩、▲3三歩、▲3四歩。効かせるだけ効かせて、▲4六歩で攻めを引き込む……勝負に出ました。少しずつ、後手に響いてきてます」
確かに、後手の手は制限されていますけど…それだけで巻き返せるものでしょうか。
「ちょっと前の△5八歩で、と金を守りつつ当たりを強くしたんでしょうけど…一気に決める展開ではなくなってしまいましたね」
指されるまでは△5六歩のように、後手が猛攻する展開が検討されていました。
「少し差がついても、ずっと離れずについていく…良い方からすると手がありそうで、一番怖い、つらいところです。3筋の交換が、今になって響いてきました。
普通の左美濃なら、攻めに攻めて快勝だったと思います。でも、本局は後手も無傷じゃないですから。△2五銀から歩を払って拠点を消しましたけど、手番は先手です。こうなってくると、勝つのは簡単じゃないです」
なんとなくですけど。とつけ加えるところが、勘を大事にするまゆちゃんらしいところでした。
少し嬉しそうに話すまゆちゃんの微笑みは、変わっていなくて…安心します。
「羽生さんは、いつもこんな感じです。どんな相手の形に堂々と飛び込んで勝負します。それは…ずっと変わっていなくて。
王将戦で真正面からぶつかり合って、
棋聖戦で頑強な受けに挑み
王座戦では力戦を打ち破り
王位戦でねじり合いを制する
いつもの……いつもの羽生さんです。
まゆは、羽生さんが対局相手で良かったと思いました」
もし将棋界に羽生さんがいなかったら…三浦九段は、ここに座ることすら叶わなかったかもしれません。いろいろな感情があることは、間違いないでしょう。
でも、それを全て盤の外に置いて。
三浦九段の全力に、羽生さんが全力で応じる。そういった勝負なのだと、今さらながら分かりました。
深夜
△2五銀 ▲3七桂 △2六銀 ▲同 飛 △3四桂 ▲2八飛
△5六歩 ▲同金直 △3六歩 ▲2五桂 △5五銀 ▲5七歩
△5六銀 ▲同 歩 △4四歩 ▲5七金 △5五歩 ▲6二銀
△5四飛 ▲3三歩 (上図)
△5六歩 ▲3二歩成 △同 金 ▲5六金 △同 飛 ▲5七銀
△3七歩成▲同 角 △5五飛 ▲3三歩 △同 角 ▲同桂成
△同 金 ▲5六歩 △3五飛 ▲5三角 △4二金 ▲4五桂(下図)
『羽生善治という偶像』があると、以前書いたことがあります。
羽生さんは特別で、完璧で…そう思いたいという意思が、偶像を作っているのだと。
この終盤は、そんな『羽生善治』をみるようでした。
じっと▲5七金と寄った手は、まさしく羽生将棋で…相手の動きを誘いながら、返し技を狙っています。そして▲3三歩 美濃の急所に、ついにくさびが入りました。勝敗を決めにいく一手です。
観ている子たちも段々と、会話が減っていきました。
どこまでも難解で、ギリギリのやり取り。
持ち時間はほとんどなく、全力を懸けて最善を求める…そんな戦い。
▲4五桂が指されたとき、大きなため息が誰かから漏れました。この手は詰めろで、△同歩とも取れません。もう少しで勝負がつく…そんな空気が流れだしました。
それはとても、甘い考えでしたけど。
△5三金 ▲3三桂成 △4六桂 ▲同 銀 △3三飛 ▲3四歩
△5七歩 ▲4九玉 △5八角 ▲3九玉 △3四飛
綱渡りのような手順が続きます。
一手誤れば、一瞬で終わる…綱を削っていく三浦九段と、正確に渡り歩こうとする羽生三冠。ずっと、その手は震えていました。それはあまりにも深く潜り込んだからこそ、出る震え。観ていたときの、あの感覚はうまく言葉にできないですけれど……
恐ろしく、惹きこまれる時間でした。
▲2三飛成 △2七桂 ▲2八玉 △3六桂 ▲2七玉 △2八桂成
▲同 玉 △2七歩 ▲同 龍 △2六歩 ▲同 龍 △2五金
▲3三歩 △4二玉 ▲5一銀打
何度、ため息が漏れたでしょう。
何度、声が上がったでしょう。
みんなの視線が、一点に縛り付けられます。
まるで、この世界にその盤だけしかないみたいに。
(投了図)
まで、131手で先手の勝ち
勝負が終わった瞬間、理解が追いつきませんでした。
数分かけて、△3三玉には▲3五歩と飛車先を止めた手が詰めろになることを確認します。
対局室になだれ込む報道陣を眺めながら、少しずつ現実に引き戻されて行くような感覚。最初に頭に浮かんだことは、
この将棋を観ることができて、よかった。
これだけでした。
おわりに
その将棋には、その指し手には、人の心を動かす力が確かにあって。
対局者の二人は、紛れもなく『棋士』でした。
重ねて書きましょう、これはあってはいけない対局です。
その中でも、両対局者は素晴らしい戦いをみせてくれました。
「前を向く」という言葉があります。それは、軽い意味ではありません。
変えられない過去と向き合って、できる限りのけじめをつけて、それでも消えない痛みを抱えたまま、次に進もうとする。
それが、「前を向く」ということです。
まだ、いろいろなことが動いています。
それを十分に知ることもできないまま…闇の中にいることは変わりません。
今は、どこが前すらも分かっていませんけれど。
最後は私にできる、いつも通りの言葉を。
お疲れ様でした。
ありがとうございました。
いつになるかは分からないけれど。
いつも通りに……ファンがまた、笑顔で観られる日がくることを願って。