佐久間まゆの徒然観戦 悲願の季節
9年前、羽生ファンは涙をのみました。
それからは毎年のように期待を抱いて、くちびるを噛みしめる季節がやってきて。いつの間か、かなりの年月が経っていたようです。
永世七冠……絵空事のような、作り話でも描けないような偉業を目の前にして、あと1期。
竜王戦だけは、観る側にとって特別なものであり続けています。
羽生善治三冠、通算タイトル98期。7大タイトルですから、平均すると1つにつき10期以上獲得していることになります。想像もできない数字ですけど、実際はタイトルごとに大きな偏りがあります。
最多は王座戦で通算24期。でも竜王戦は……通算6期です。それでも歴代2位ですし、これだけでも偉大な記録ですけど『永世称号』がまだなんです。タイトルにおける、殿堂入りにみたいなものですね。
棋戦ごとに違いますけど、竜王位は連続5期、通算7期で永世称号の資格を得ます。
竜王戦は2003年に失冠してから、奪取できていません。10年以上、あと1期が続いてるわけです。
少なくとも、ファンにとっては……悲願といえるでしょう。
そして、今年もまた……この季節がやってきました。
(2017年7月31日)
第30期竜王戦 挑戦者決定トーナメント準決勝
竜王戦は1組から6組に分かれてトーナメントを行い、上位者が挑戦者決定トーナメントに進めます。細かなところは複雑ですけど……挑決トーナメントは「負けたら終わり」です。
毎年のように、勢いに乗った若手や実力者が激戦を繰り広げています。対戦相手の稲葉八段も、今期名人戦の挑戦者になった方ですね。居飛車党で、受けや粘りに定評があります。
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲6八玉
戦型は、横歩取りに進みました。両者得意としているので、ここまでは自然です。
……でも、▲6八玉で局面が一気に緊迫します。羽生さんの選択は『勇気流』でした。
勇気流は横歩取りの中でも最新型で、先手が形を指定して主導権を握ることができます。そのぶん、かなり高い攻めの技術が必要ですけど……だから指してるんですかねぇ?
羽生さんは勇気流の初期から採用をしていて、今期竜王戦でも村山七段相手に指しています。発案者の佐々木六段も連勝していましたけど、2番目くらいに勝っていると思います。
もともと、勇気流の前身の青野流も愛用されていましたから……棋風や感覚があっているのかもしれません。
竜王戦でも、青野流を採用して勝ったことがあるんですよ?(第23期 羽生―小林裕 戦)
その後、先手苦戦の研究が出て、採用はなくなりましたけど……序盤から攻めっ気100%の羽生さんも、いいものです……♪
△8五飛 ▲3六歩 △2五飛 ▲2八歩 △8五飛 ▲3七桂
△8二飛 ▲3八銀 △4二玉 ▲8四歩 △7二銀
後手には何通りかの応手がありますけど、一番激しい最新研究は△5二玉から△7六飛です。羽生―村山 戦で指された変化で、その後の広瀬―稲葉 戦で先手に修正手順が出ています。両対局者が経験した形ですけど2局とも先手勝ちでしたから、後手の稲葉八段は別の手を選んだようです。
本譜△8五飛から△2五飛とするのも有力とされる手順で、▲2八歩と打つことになるので先手の攻めを制限しています。狙いは、先手陣の抑え込みです。
ただ△8五飛と戻って、更に△8二飛と引くので3手損しています。▲2八歩も大きいですけど……損得は難しいですね。
勇気流の中でも変化のしやすい力戦になって、△7二銀で前例を離れました。30手弱で、未知の世界です。
△7二銀ではなく△2二銀とした前例はあって、こちらは▲4五桂を先受けした自然な手です。本局で▲4五桂が成立するか、これは大きな問題でしたけど……1時間9分長考して、断念しました。感想戦で指摘されたのは、こんな感じで――
(変化図)
(△7二銀以下
▲4五桂 △8八角成 ▲同 銀 △3三歩 ▲2四飛 △2三歩
▲2五飛 △4四歩 ▲5三桂成 △同 玉 ▲5五飛 △4三玉
▲8五飛 △6四歩)
先手が少し無理をしているそうです。
というわけで断念して▲7七桂と跳ねました。青野流ではよく出ていた手で、今度こそ▲4五桂ーから▲6五桂と殺到する狙いです。
後手は徹底して先手の攻め筋を消しにかかります。
▲7七桂 △4四歩 ▲9六歩 △8六歩 ▲9七角 △4三金
▲3五飛 △8四飛 ▲8五歩 △8二飛 ▲8六角 △7四歩
▲7五歩 △同 歩 ▲同 飛
すぐの仕掛けは先手も無理なので、2次駒組みですね。端から角をのぞいて、飛車を7筋に回ったあたりはひねり飛車みたいです。若かりし羽生さんが得意としていた形に似ていますけど……玉と角の位置が少し気になります。
△7三銀~△6四銀で抑え込まれるといけないので、6筋の位を取りました。玉頭だけに怖いですけど、そうは言ってられない局面なんです。
攻めが繋がるか、受けきりか。ギリギリの駆け引きが続きましたけど、△5四金で流れが一気に変わりました。
▲4五歩 △同 歩 ▲4七銀 △8三銀 ▲6七金 △7四歩
▲3五歩
△5四金は陣形がバラバラになるかわりに、▲6四歩の捌きを封じながら△8三銀と動く狙いがあります。△7二銀とぶつけて飛車交換になると、先手は△6六飛で王手角取りです。……玉の位置が、マイナスになりますね。
ですから、先手はここで動くしかありません。4筋を突き捨てて、▲4七銀と出る。……ひと目みて、遅いと思いました。▲5六銀、▲4五銀の2手かけてやっと攻めになる手です。
右辺の形を崩すと、2手かける間に右も左も戦場になります。その分だけ、自玉も危険になる……。
後手は狙い通りの△8三銀。次に△7二飛となれば、先手陣は飛車打ちのスキが多すぎます。
そこで▲6七金と飛車にヒモをつけましたけど、金銀がバラバラで勇気流だったとは思えない陣形です。7筋と8筋から圧力をかけられて、銀を上がる余裕もありません。
もし、大駒が抑え込まれてしまえば……この将棋は、それでお終りなんです。
それでも、羽生さんはいつものように▲3五歩と手を渡します。
局面を直視するのが怖い。そう思えるくらい、後手の圧力はすさまじく見えました。
△8四歩 ▲3六銀 △8五歩 ▲9七角 △7五歩 ▲同 角
△7四銀
△7五歩は「大駒は近づけて受けよ」の手筋で、どちらで取っても銀で攻められます。逃げても△7三角が厳しすぎますね。
また……今年も、終わってしまうのか。イヤな想像もしてしまいました。それくらい、先手が良い手順を見出せませんでした。
△7四銀で抑え込みが決まったと、思ったんです。それは……とんでもない思い違いでしたけど。
▲4五銀 △7五銀 ▲同 飛 △3三歩
角取りを手抜いて▲4五銀。角銀交換を甘受して、手番は後手。普通は、後手が優勢としたものです。
なのに……後手から、ピッタリした手がありません。
遅いと思った右銀が、狙われそうな▲3七桂が、▲3五歩が、後手を縛っています。▲4三歩のような手もあって、受けきるのが難しいんです。
△3三歩と受けて、先手は銀と歩の持駒だけ。単純な攻めだと、切れてしまいます。
ここから、マジックのような攻めが始まりました。
▲8三歩 △9二飛 ▲5四銀 △同 歩 ▲8二金
▲8三歩に△同飛は、▲7二銀や▲5四銀の攻めをみて先手のプラスです。△9二飛とかわして難しく見えますけど……俗手の▲8二金が飛び出しました。
貴重な金駒を僻地に使うのは、普通はダメな手です。でも、本局では成立していました。▲8一金と取った手が、▲4四桂△4三玉▲5二銀をみているんですね。後手玉の急所をとらえています。そして、5二に打つ銀は角銀交換で手に入れた銀です。
切れてしまいそうな細い糸が、一本に繋がっていきます。
△9三飛 ▲8一金 △8三飛 ▲7一金 △8四角 ▲7四飛
△6二金 ▲7二金 △5三金 ▲7三銀 (上図)
△同 角 ▲同 金 △8一飛 ▲6三金(下図)
後手も角を使って抵抗しますが、一ヶ所でも破れてしまうと抑え込みは薄さが響いてくるんです。
俗手の追い打ちで、▲7三銀。どう応じても、後手の大駒を取り返せます。
▲6三金で、飛車成りが確実になりました。8二に打ったはずの金が、活躍しながら6三まで旅をする……あまりにも鮮やかな手順です。
抑え込まれていた攻め駒が、息を吹き返して輝いています。
まるで、魔法をみているみたいですねぇ……。
指しにくい手順でも掘り下げて、正確に指しぬく……羽生さんの棋風は昔から変わりませんけど、この瞬間だけは未だに理解はできません。
だからこそ、強いんです。
△同 金 ▲7二飛成 △4一飛 ▲4四桂 △2二玉 ▲3二角
△3一金 ▲4一角成 △同 金 ▲4三歩
まで99手で先手の勝ち
先手陣も金銀はバラバラですが、すぐには寄らない形です。急所の▲4四桂がついに入って、後手玉は受けがありません。
▲4三歩で、稲葉八段の投了となりました。
詰めろですけどこの歩は取れないので、指しようがないです。
本局は、羽生将棋の真骨頂ともいえる展開でした。
羽生マジックという言葉は、まるで「ありえない一手」の意味に使われがちですけど……実際は、少し違います。
普通は成立しない手でも、深い読みと正確な判断で活路を見いだす。「例外の手順」を拾い上げるのが羽生将棋なんです。ですから「マジック」と言われる一手は、羽生将棋のごく一部分でしかありません。
うまく表現できないですけど、理解できないからこそ惹かれるのかもしれません。
これで羽生さんは挑戦者決定戦に進みました。相手は1組決勝でも戦った松尾八段です。
戦いはこれからですし、ここから先も険しい道のりが待っています。
永世称号が、何かを劇的に変えるわけではありません。
ファン目線の勝手な思いということも分かってます。
でも……好きな人を応援するのに、理由なんていりません。
だから、こうして追いかけ続けて、勝ってほしいと……願いたくなるんです。
きっとこの気持ちが消えることは、ないのでしょう。
頂点に立つ、その瞬間まで……ずっと。
(了)