安部菜々の名局振り返り 鰻屋の復活
これまで長きに渡って将棋が指され、あまたの棋譜が残されてきました。その中でも名局と呼ばれる、ひときわ輝きを放つ勝負も、数えきれないほどあります。
でも……ふと振り返ってみたときに、頭から離れない一局があるんです。その指し手が、悲鳴が、熱狂が……今でも目の前に浮かんでくるような、勝負。
今回は、そんなお話です。
第53期王位戦 挑戦者決定戦
昨日のことのように思いだせますけど、もう5年前ですか。時が経つのは早いですねぇ……。少し、昔話をしましょう。
このとき、将棋界の勢力図は大きく動こうとしていました。渡辺竜王(当時)が各棋戦を勝ち上がり、19期連覇していた『無敵王座』こと羽生王座からタイトルを奪取。「世代交代」といった語も、まことしやかにささやかれていました。
この王位戦も勢いを象徴するかのように紅組リーグを4勝1敗で勝ち抜け、挑戦者決定戦に進みました。充実した若手棋士って、負けるイメージが湧かないときがありますよね?まさにそんな状態でした。
対して白組を勝ち上がったのが、藤井猛九段。藤井システムで棋界を席巻したのも20年近く前のことで、激しく厳しい対システム研究によってパッタリと採用がなくなります。藤井九段曰く『ファーム落ち』の時代ですね。
以降は角交換四間飛車や藤井矢倉など、さまざまな序盤を編み出してきましたが……思うように勝ちきれない将棋も多々あって。王座戦挑戦や前期王位戦の挑戦者決定戦進出などの活躍もありながら、一方で順位戦ではA級からB級2組まで連即降級を喫していました。
対戦成績は、渡辺竜王の6勝3敗。持ち時間の長い対局ではことごとく渡辺竜王が制していました。そんな中で、挑戦者決定戦を迎えたのです。
振り駒で渡辺竜王の先手に。藤井九段が作戦の限られる後手番で、何をぶつけるのか……注目が集まりました。
▲2六歩 △3四歩 ▲7六歩 △4四歩 ▲4八銀 △4二飛
4手目 △4四歩……この手だけで歓声がわくのは、この人しかいないでしょう。ノーマル四間飛車、藤井システム。大一番で指された藤井九段の代名詞に、観戦していたファンは快哉をあげました。
▲6八玉 △9四歩 ▲7八玉 △7二銀 ▲5六歩 △3三角
▲5八金右 △6四歩 ▲2五歩 △5二金左 ▲5七銀 △3二銀
▲5五角
藤井システムは左美濃、穴熊、急戦のすべてに対応するべく研究された四間飛車です。1998年には谷川竜王(当時)を下して、以降3連覇を達成しました。……ですが羽生世代を中心に対策が進み、居飛車も十分に戦えるという認識が広まっていくことになります。
ファーム落ちから実戦に復帰させたのが2011年の夏、しかし以降もメインで使う状態ではありませんでした。
▲5五角と出た手は代表的なシステム対策で、仕掛けに必要な△6四歩を否定しにいく手です。△6三銀で後手陣が崩れるという主張で、本譜は急戦ではなく▲3七角と引いて駒組み勝ちを狙う展開になりました。
△6三銀 ▲8八玉 △9五歩 ▲3六歩 △4三銀
▲6六歩 △6二玉 ▲1六歩 △5四銀左 ▲3七角 △4五歩
▲6七金 △6五歩 ▲7八金 △7一玉 ▲7七桂 △6六歩
▲同 銀 △6五歩 ▲5七銀 △2二飛 ▲7五歩(上図)
△7二銀
▲7六金 △8四歩 ▲6八銀上 △4二飛 ▲8六歩 △1四歩
▲6七銀 △3五歩 ▲同 歩 △4四角 ▲2六角 △6三金
▲6八銀 △4六歩
手順は長くなりますけど、大きな流れとしては先手が位を取って抑える方針。後手は美濃を復活させましたが、動かせる駒が少ない状態。ここは後手の作戦負けですね。先手は指したい手がたくさんあるので、手渡しもできません。後手からの開戦となりました。
▲同 歩 △6六歩 ▲同 銀 △同 角 ▲同 金 △4六飛
▲4八歩 △3三桂 ▲3四歩 △2六飛 ▲同 飛 △4四角
▲2七飛 △6六角 ▲3三歩成
角銀交換で、飛車をさばく。ひとめ無理筋ですけど、これ以外はもっと苦しくなるとみた判断です。先手も強く迎え撃ち、形勢は開いていきました。
序盤巧者の藤井九段が、作戦負けで中盤戦に入る。このときは、活気とは程遠い雰囲気だったことを覚えています。と金が迫るのは目に見えてますし、金銀だけで先手陣が崩せようには思えません。
ここから起きたことは、おそらく誰も予想すらしていなかったでしょう。
△6九銀 ▲4二と △4一歩 ▲3二飛 △6二金引
△6九銀、直接金を狙う『ガジガジ流』です。「寄せとは剥がすことなり」という格言もありますが、この局面で打つ棋士は少ないでしょう。そして▲4二とに、△4一歩と受けた手が非凡な好手でした。
先手の狙いは▲5二と△同金で美濃を崩してから飛車を打つこと。下段の歩は手筋ではありますが、△6九銀から一転して貴重な1歩を受けに使う発想は誰も持っていませんでした。次の△6二金引も、控室から悲鳴があがる一手。美濃囲いを知り尽くしてなければ指せません。△6九銀、△4一歩、△6二金引……バラバラに見えるこの3手で、先手陣に火が付き後手陣は一気に引き締まりました。
あまりにも高度な応酬に、観ているこちら側は何が起きているのか分からず混乱するばかりでした。ですが簡単に終わりそうにない予感がただよってきたのは、肌で感じていました。
局面が、控室が、観戦者が……熱を帯びていきます。
▲5五歩 △同 角 ▲7九金 △5八銀成 ▲6七銀 △6八金
▲5八銀 △同 金 ▲5九歩 △6八銀 ▲7八金 △5七金
▲8九桂 △4二歩 ▲同飛成 △6六歩 ▲3四角 △4三歩
先手がミスをしたというより後手が狙いを上回る好手を指したという表現がふさわしい一連の手順でしたが、ついに▲5五歩で流れが後手に傾きます。
5筋の歩を切って受けに回るのは、それまでの方針とはちぐはぐです。後手の攻めを受けきれるならそれでいいですけど、ガジガジ流がさらに火を噴くことになりました。
金銀と角の利きだけで、先手陣が崩壊していきます。絶大だった厚みが消え、剥がされた先手玉は薄く心もとない。対して後手玉は美濃が鉄壁で、攻めに専念できる形。
こうなったら、本家の鰻屋は止まらない。終盤にさしかかり、熱気は増すばかりです。
▲6九歩 △7七銀成 ▲同 桂 △6五桂 ▲7六銀 △7七桂成
▲同 金 △6五桂
後手の攻めは切れません。10手以上放置していたと金を取って、△6六歩と垂らす。△4三歩と受けて、後手玉は依然鉄壁のまま。さきの▲5五歩が、祟ってきました。そして急所の△6五桂。歩を1枚も余さず攻めが繋がりました。『1歩竜王』を連想させるような……ファンの待ち望んだ藤井将棋です。
終盤に突入していきますが、ここまでの攻防で対局者は時間をかなり消費していました。渡辺竜王は1分将棋に入り、藤井九段も持ち時間2分。これが、さらなる激戦を呼びます。
▲同 銀 △6七歩成 ▲同 角 △6五銀 ▲5七飛 △7七角成
▲同 玉 △6六銀打 ▲6八玉 △7七金 ▲5八玉 △6七金
▲同 飛 △同銀成 ▲4七玉 △3九飛
ボロボロと先手の駒が取られていきますが、お互いに時間のない中で後手にもミスが生じました。△6七同成銀がそれで、不成なら5六の地点を塞いでいるから▲同玉と取るしかなく先手は寄ったそうです。でも対局中はそれを精査する時間も、反省する余裕もありません。控室ですら、結論を出せないまま手が進んでいきました。
裸の先手玉が捕まるのか……中継サイトに映る将棋盤の30秒ごとの更新を、食い入るように見つめていました。
▲3七桂 △5六銀 ▲同 玉 △3七飛成 ▲4七金 △3五龍
▲6七玉 △5五桂 ▲6八玉 △4七桂成 ▲同 歩 △6五龍
▲6七銀 △6六金 ▲7八銀打 △5七角 ▲5八玉 △3九角成
▲4八銀 △5五龍 ▲5六桂 △4八馬 ▲同 玉 △5六金
▲3七角 △5七金 ▲3八玉
打たされたはずの歩の絨毯が、やけに受けに利いてくる。大海を泳ぐ先手玉は、捕まるのかどうかも分からない。そもそも、考える時間もない。理解をとうに置いてきて、熱気と興奮が渦巻いていました。
何度、悲鳴があがったでしょう。ひたすらに、勝利を求めてもがく両者の指し手が更新されていきました。
「人間の勝負だ……」(勝又清和六段)
このコメントが一番よく表していたと思います。今持っているものすべてを、盤にぶつけるような応酬が続きました。
永遠に続くと思えた終盤も、クライマックス。
「ひとつ、ひとつだ」のコメントがされた局面です。ここで△4五竜とひとつ寄る手が、分かりにくいですが詰めろだったんですね。
(変化図)
△4五龍 ▲7四桂 △4七金 ▲2九玉 △3八銀 ▲1八玉
△2七銀成 ▲同 玉 △3七金 ▲同 玉 △3六歩 ▲3八玉
△2六桂 ▲3九玉 △5七角 ▲2八玉 △4八龍 ▲1七玉
△3七龍 ▲2七金 △3九角成(まで、先手玉は詰みとなる)
ただ、1分将棋でこの手順は難解なうえに読み切らなければ指せません。後から調べればいろいろなことが分かりますけど、詰まなかったら将棋が終わる手順です。
そして指された手は……ふたつ。これだと先手玉に詰みはありません。▲7四桂で、後手玉にもついに詰めろが掛かりました。
どちらが勝っているのか分からない、何が指されるかも分からない。観ていた誰もが、この勝負に魅入られていました。
△3五龍 ▲7四桂 △4六桂 ▲2八玉 △7四歩
▲6四角 △7三桂 ▲4六角引 △3六龍 ▲2七金 △3五桂
最後に活躍したのは桂馬でした。△4六桂の王手が返し技で、攻守を再び入れ替えます。
▲2七金が最後のミスで、ギリギリ受けになっていなかったんですね。竜を見切って△3五桂が決め手で、先手玉は必至になりました。
▲3六金 △2七銀 ▲2九玉 △4七金 ▲3九歩 △3八歩
▲6二龍 △同 金 ▲5一飛 △8二玉
最後の王手ラッシュは、△8二玉でわずかに届かず。美濃囲いの堅さ、遠さ、そして端の位が最後まで活きています。
まで、166手で後手、藤井九段の勝利。
息詰まる終盤戦を、ほぼ1分将棋で70手……対局者の疲労は想像を絶しますし、観ていただけでも体力を消耗していました。
グッタリはしていましたけど、同時にとても幸せな時間でした。感想すら浮かぶ余裕もなくて……「この勝負を観られてよかった」と満足感に浸るばかりでした。
この対局は棋譜だけみれば、互いにミスがある将棋です。本来の「名局」の概念からは、少し逸れているかもしれません。それでもこの勝負には、人の心を動かす力が確かにありました。藤井システムという戦型だったり、対局者の棋風だったり、1分将棋の熱気だったり……一局に収まりきらない数多の積み重ねが、この対局を名局たらしめたと、勝手ながらに思うのです。
このとき、この2人だからこそ生まれた興奮と感動が、詰まっていました。
そして棋士の歩みは、1局で止まることはありません。挑戦を決めた藤井九段は羽生王位相手に藤井システムと角交換四間飛車を武器に挑みます。
ここでは棋界の流れを大きく変えるくらい、角交換四間飛車が大活躍をするのですが……それはまた、別のお話です。
最後にこの王位戦の前に寄せられた文を紹介して、終わりとします。
「B1から落ちたら墓場だと思っていた。でも、そうじゃないんだ。落ちたらまた上がればいいんだよ。そう思えない精神状態がおかしいんだ。何度でも上がればいいんだから」(藤井猛九段、将棋世界2012年5月号より)
技術も、体力も大切ですけど……最後の最後に輝くのは、「諦めないこと」なのかもしれません。
(了)