とある事務所の将棋紀行

将棋の好きなアイドルが好き勝手に語るみたいです。

新田美波の徒然観戦  2018年、将棋界の一番長い日

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『事実は小説より奇なり』

有名な言葉だけれど、その瞬間を目の当たりにすることはほとんどない。フィクションを超える事態なんて、頻繁に起きたらそれはそれで困るだろう。

……でもこの一日は、起きるべくして起きたドラマだったと思う。

 

今期のA級順位戦は、後半に波乱が待っていた。前半を5戦全勝していた豊島八段が星を落とし、既に複数の黒星がついていた棋士は星を伸ばした。特に第10回戦の豊島―三浦 戦(三浦勝ち)は非常に大きく、10人が挑戦または降級に絡んだまま、最終日へともつれこんだ。

1年間を通した勝負が、この日で最後を迎える。それが「将棋界で一番長い日」だ。

 

状況を整理しておくと、

久保王将 6勝3敗  9位

豊島八段 6勝3敗 10位

羽生竜王 6勝4敗  2位  抜け番

稲葉八段 5勝4敗  1位

広瀬八段 5勝4敗  4位

佐藤九段 5勝4敗  8位

渡辺棋王 4勝5敗  3位

深浦九段 4勝5敗  7位

三浦九段 4勝5敗 11位

行方八段 3勝6敗  5位

屋敷九段 2勝7敗  6位  降級

 

久保王将、豊島八段の2名が負けたときのみ、5勝4敗の棋士プレーオフの可能性が生じる状況だった。抜け番である羽生竜王は自動的にプレーオフとなるが、他3人は本局で勝たないとプレーオフのチャンスは生まれない。
降級争いも含め、一勝があまりにも大きな意味を持つ戦いになる。

静岡県静岡市浮月楼」で行われた最終局は、注目を集める中で行われた。

 

対局開始~昼食休憩

対局者が入室する様子から生放送されていたが、毎年恒例?「行方八段がいつ来るのか」の話題から始まった。

「BSで放送されてる頃から、時間ギリギリでしたからねぇ」(菜々)

対局開始が9時で、いつもより1時間早いのが不安視されるらしい。……静岡まで来ているのだから、大丈夫だとは思うのだけど。行方八段は10分前に入室。9時までにすべての駒が並べられ、滞りなく対局は始まった。

手番があらかじめ決まっている順位戦は、戦型も準備しやすい面もある。パタパタと手が進む対局は多かった。昼食休憩の時点での進行を簡単にまとめてみる。

広瀬八段(5勝4敗)―豊島八段(6勝3敗) 横歩取り△8四飛戦法

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▲6八玉・△6二玉型は珍しく、後手が趣向を凝らしたといえる。△2五歩―△2四飛とひねり飛車に近い形にして、後手玉は美濃囲いに収める準備ができている。後手陣は低さ、先手陣は手厚さを主張する展開になりそう。

稲葉八段(5勝4敗)―行方八段(3勝6敗) 後手雁木

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角換わりの出だしから△4四歩と角交換を拒否する、最近の流行形。先手陣は角を動かして囲うことが難しいので、急戦模様の棒銀から3筋で仕掛けた。この形は争点が少ない戦いになりがちで、3筋争いがそのまま勝敗に結びつく可能性もある。

佐藤九段(5勝4敗)―屋敷九段(2勝7敗) 先手向かい飛車

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佐藤九段の先手角交換向かい飛車。ダイレクト向かい飛車に近いが、▲5六歩を突いてあるので後手から馬を作る展開にできなかった。▲7九金が先手の趣向で、飛車交換に非常に強い形で▲8五歩が狙い。後手はそれを受けず、△3五歩と右辺に活路を求めた局面となっている。先手が佐藤九段ということもあって、今後の展開が一番予想できていない。

 
久保王将(6勝3敗)―深浦九段(4勝5敗) 先手三間飛車

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初手▲7八飛戦法から、角道を開けたままの駒組みに。一手一手が難しい序盤で、後手は囲いを決めずに先手の動きをみている。順位戦らしい、進行の遅い序盤だ。


三浦九段(4勝5敗)―渡辺棋王(4勝5敗) 角換わり棒銀

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すでに中盤戦となっているが、少し前まで前例と合流していた。棋王戦第2局 永瀬―渡辺 戦がそれで、難解ながら後手が手に苦心する中終盤が続いた。組みとめて長い戦いになりそうだが、互いの構想が難しい。

 

9時開始とはいえ、持ち時間各6時間は長い。これから戦いが本格化していく。

 

~夕食休憩

 

 

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「佐藤九段がらしい将棋を指してますね!」

菜々さんが盤を眺めながら声を弾ませた。
飛車交換になるかと思われた矢先に、佐藤九段は攻めの矛先をズラして▲5七銀と出た。△3五歩は伸びすぎだと否定しにいった手で、飛車交換から横を攻め合う将棋にはしないという意思表示でもある。

「玉頭戦にする気ですよ、間違いないです。そういう展開は、めっぽう強いですし」

佐藤九段はもともと居飛車党だ。「緻密流」と言われると繊細なイメージを受けるけど、昔から深い読みに裏打ちされた力強い将棋を指している。独特な振り飛車を多用するようになってもそれは変わらず、かなりの割合で縦方向の押し合い……玉頭戦の終盤になっている。

「今期がここまで混戦になったのも、佐藤九段の活躍は大きいですねぇ……。久保さんに稲葉さん、羽生さんにも勝ってますし」

正直ここまで活躍されるとは予想してませんでした、とつけ加えて苦笑する。昨期は降級をギリギリで回避して8位。ここ数年のA級の成績をみても、挑戦争いに絡むとは思ってもみなかった。

「羽生さんの陰であまり目立ってませんけど、佐藤九段も本当にすごい方なんですよ。50歳を手前にして、未だにトップで活躍しているわけですから」

タイトル獲得数は、羽生世代で羽生さんに次いで二番目。その地力を、軽視していたのかもしれない。

「A級にいる棋士はみんな、トップにいるだけの実力があって在籍しています。誰が挑戦してもおかしくないメンバーです。それを、忘れかけてたかもしれませんねぇ」

挑戦権の行き先は分からないまま揺れていた。


差がつきそうなのは三浦―渡辺 戦で、手の作り方が難しい後手は穴熊を目指したものの金銀が上ずっている。相居飛車戦の穴熊は遠いが堅くないため、2筋攻めで手になりそうとの評判だった。ただ、その展望を現実のものにするのとても大変なことは確かだ。

夕食休憩が明ければ、終盤戦に突入する。朝の対局開始から約12時間が経過し、ようやく迎える勝負の山場。

解説会の会場では、抜け番の羽生竜王が各対局を解説していた。場合によっては、羽生竜王にもプレーオフの可能性がある。本局の結果は最後まで見届けるらしい。

夜になり、だんだんと盛り上がっていく。順位戦はこれからが正念場だ。

 



最初に大きく動いたのが広瀬―豊島 戦、△5七角成とタダ同然の角切りが飛び出した。

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先手が抑え込み気味で、8筋を伸ばす攻めも在る中で飛び出した勝負手。
同玉に△3五歩から飛車先を突破する狙いだが、一点の狙いゆえに評価は芳しくない。手堅く受けられて駒損だけが残ってしまった。

もう一方の挑戦がかかった久保―深浦 戦は、先手模様良しから混戦に変わった。後手歩切れを突いて捌けるかと思われたところから、深浦九段のこらえ方が上手く玉頭戦に。先手は桂香損で、長い戦いになるとそれが響いてくる可能性が高い。

この2局の展開によって、4者(以上)プレーオフの可能性も生じる。観る側には「もしかしたら……」という期待にも似た気持ちが生まれていた。

 

夜戦、そして終幕


最初の終局は22時18分、豊島八段の投了。

やはり後手の攻めが切れてしまい、8七にあった歩がゆっくりと後手陣に迫って玉を仕留めた。

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ほぼ同じ時間帯に、久保―深浦 戦の形勢も揺れた。後手が端攻めに出たタイミングが微妙で、4筋からの殺到を許す終盤戦に。挑戦権の行方がかかった一局となり、俄然注目が集まった。こちらの勝負はまだまだ終わらない。

 

ついで稲葉―行方 戦が終局、23時22分。

 

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後手の厚みは崩れ、ジリジリと後手の居玉が追い詰められていき最後は大差に。終わってみれば先手の会心譜で、稲葉八段は6勝4敗としてプレーオフに望みをつないだ。行方八段は3勝7敗で降級が確定した。

 

佐藤―屋敷 戦は23時40分に終局。

最後の寄せは予想できないほど大胆だった。角角金を渡して、香車を成って詰めろを掛ける。かなりの駒損だが、指されてみると受けがなく先手玉は広くて詰まない。屋敷九段は30分以上手を止めたが、手段はなかった。

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(以下△2二金打▲3三歩成で終局)

これで佐藤九段は6勝4敗。屋敷九段は既に降級が決まっていたが、2勝8敗で今期を終えた。

 

残るは2局。中継される画面も二分割で同時に流されるようになり、この一日もクライマックスを迎える。

三浦―渡辺 戦は依然として先手良しだったが、スペースを埋める穴熊流の粘りに、決められるかどうかという終盤。ひたすらに穴熊に対して攻め駒を切らさないよう張り付き続け、後手の受けは次第になくなっていった。

最後はゼットの後手玉(ただし受けもない)をいかし先手に詰めろで迫っていったが、
▲8三歩、▲8六歩……細心の手順で後手の攻めが切れていく。▲9六銀を着手したときの三浦九段の手は、画面越しに分かるほど大きく震えていた。

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いつの間にか日付を超えていたのだけど、それを気にする余裕はもうない。勝負のゆく末を見届けるだけで精一杯だった。
そのまま5分考えて、渡辺棋王の投了。この瞬間、三浦九段が自力で残留を決めた。

3勝5敗という窮地からの、2連勝。まさに「勝ち取った」という表現がふさわしい。

 

勝負の余韻に浸ることもできないまま、最後の対局に注目が集まる。最後に残った対局が、挑戦と降級の行方を決めることになった。

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ひとつミスをすれば簡単に形勢が入れ替わるような、綱渡りの最終盤。先手は大駒をすべて捨てて桂馬二枚で後手玉に迫ったが、△4二飛がギリギリの切り返し。この手自体は詰めろではないけれど、先手が▲3三桂右成から攻めてきたときに詰みが生じるようになっている。

深浦九段は勝てば残留する。対局前から分かっていたことだけど、周りの対局が終わって「負ければ降級」という状態となった。

A級順位戦を、4勝5敗で終えながら頭ハネで降級。そんな酷ともいえる戦いを二度、深浦九段は経験している。A級からの降級3回、B1からの昇級4回。順位戦の怖さ、白星ひとつの重さは、おそらく誰よりも経験している。そして諦めずに何度もA級に戻ってきた棋士だ。

後手玉もかなり危ういが、わずかに捕まらない。対して先手玉は受けたり逃げたりするスペースがない。緩手と言われた端攻めも、ジリジリと効果を発揮してきた。

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▲3七銀と埋めて、詰めろを防ぐ。粘りの一手だけど、速度の差は覆らない。

▲2八銀には悲鳴があがった。受けるならこれしかないが、後手玉は相当詰まなくなる。必死に耐えて後手が駒を渡したときに活路が開ける、わずかな可能性にかけた。
しかし後手もそれは分かっている。△1七桂で、詰めた端が先手玉に牙をむいた。金銀5枚の壁の裏を、着実に迫っていく。

終局が近い。

 

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△2九銀をみて、久保王将が頭を下げた。しばらく、どちらも言葉を発しないまま時間が流れる。重い、重い一勝。

観ているこちらも終わった解放感がなく、その重さに潰されそうな錯覚すら覚えた。
疲労と、熱気と興奮が渦巻く12時すぎ。

この一局で、すべての趨勢が決まった。

稲葉八段 6勝4敗  1位  プレーオフ

羽生竜王 6勝4敗  2位  プレーオフ

広瀬八段 6勝4敗  4位  プレーオフ

佐藤九段 6勝4敗  8位  プレーオフ

久保王将 6勝4敗  9位  プレーオフ

豊島八段 6勝4敗 10位  プレーオフ

深浦九段 5勝5敗  7位  残留

三浦九段 5勝5敗 11位  残留

渡辺棋王 4勝6敗  3位  降級

行方八段 3勝7敗  5位  降級

屋敷九段 2勝8敗  6位  降級


6人が6勝4敗で並び、挑戦の行方はプレーオフにもつれ込んだ。この対局が始まる前に想定された、最大の人数。

2年連続の挑戦も

100期目を竜王名人で迎えることも

王位戦以来のタイトル奪取も

約20年振りの名人復位も

振り飛車党の名人挑戦も

A級1期目の快進撃も

そのどれもが可能性を残したまま、将棋界の一番長い日は幕を閉じた。

この決着は、奇跡や偶然ではまったくなくて。
想像を絶するほど熱く壮絶な勝負の積み重ねが、形作っているのだと思う。

将棋の厳しさ、残酷さ……そして美しさが詰まった一日だった。

 

(了)