高垣楓の徒然観戦 未踏の景色
羽生善治という棋士が七冠を制覇してから、20年以上の年月が経ちました。一度すべての頂点を極めたその人は、今に至るまで第一線を戦い抜き……誰も見たことのない場所へ、たどり着こうとしています。
永世竜王、そして永世七冠。一般的な言葉に置き換えると「殿堂入り」に近いこの称号を、7つのタイトルで達成するという途方もない偉業。絵空事のような、むしろ絵空事でも出来過ぎと思える高みまで、あと1勝。
どこか夢をみているような心地で迎えた、本局でした。
第30期竜王戦 第5局 (12月4日、5日)
羽生善治棋聖ー渡辺明竜王 戦
・1日目、朝 変わらない名前
「将棋界も、ここ数年で大きく変わりましたねぇ」
初日の朝、菜々さんがパソコンの画面を眺めながら呟きました。
「タイトル戦の結果って、昔は翌日の新聞や中継サイトを観るくらいしかなくて……。竜王戦だって、前はテレビで速報を眺めてたんですよ?」
画面に映っているのは、対局室の光景。ネットを通じて生放送で観ることができます。
「今では対局開始から封じ手、翌日の終局も感想戦も……全部がリアルタイムで、解説までついて観られるんですから。すごい時代になりましたよねぇ」
本局の行く末も、たくさんの人が画面を介して見守ることになるのでしょう。
9時、対局開始の合図で両対局者が頭を下げました。少し間をおいて、先手の羽生棋聖がいつも通りの舞うような手つきで初手を着手、▲7六歩。
「でも不思議ですよねぇ……。どんなに時代が変わっても、この方の名前だけは変わらず、対局者の位置にあるんですよ」
普通だったらあり得ないことですよ、と話す菜々さんは、言葉とは裏腹にとても嬉しそうで。
誰も見たことのない物語が、期待と不安の中で幕をあけました。
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲7八金 △8五歩
▲7七角 △3四歩 ▲6八銀 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀
▲3八銀 △6二銀 ▲4六歩 △4二玉 ▲4七銀
「羽生さんも、ずっと安定してトップにいたわけじゃありません」
ゆっくりと駒が進む序盤、菜々さんの昔話は続きます。
「2004年度は森内さんに3連続でタイトルと奪われて一冠に後退しましたし、2011年度には19連覇していた王座を渡辺さんに奪取されました。棋界の勢力図が書き換えられるのではないか、と囁かれたことは何度もあったんです」
去年も、今年もそうでした。と苦笑する菜々さん。去年は横歩取りに苦戦し、名人位を失冠。今年は棋聖を防衛したものの、王位、王座を失冠して1冠に後退。それに反応する声は、確かにありました。
「でも、苦境に適応して、いつの間にか復活しているんですよ。トップクラスの最先端の将棋を、自分のものにし続けてきたんです。その裏にどれだけの努力があるか……!」
横歩取りで完敗する将棋は、今では見られません。むしろ竜王挑戦の原動力になっていました。
「この七番勝負でも『相掛かり』、『後手雁木』、『先手中飛車』、『矢倉』と、様々な戦型を採用してきました。その妥協しない姿勢の積み重ねが、羽生さんを支えています。今日だって――」
角換わりの最新型でしょう、と語る菜々さんはとても楽しそうに微笑んでいました。
・1日目、昼 新構想
△3三銀 ▲5六銀 △7四歩 ▲5八金 △6四歩
▲6八玉 △6三銀 ▲3六歩 △1四歩 ▲1六歩 △7三桂
▲9六歩 △8一飛 ▲7九玉 △6二金 ▲3七桂 △3一玉
「数日前のA級順位戦が下地にありますね」
駒組みも一通りの手順をおえて、中盤に続く岐路に立ったところ。
お昼休憩に入ったので、美波ちゃんに局面について聞いてみたらこんな言葉が返ってきました。
「互いに4筋、6筋の突き合いを保留して、後手は△6二金・8一飛型に構えるのが流行の形です。先手の▲5八金型は羽生棋聖が好んで指している印象で、A級順位戦 羽生―渡辺 戦でほぼ同じ形が指されています」
(参考図)
スラスラと局面を並べていきます。
「違いは△3一玉と早く引いていて、9筋を突いていないこと。前例では△4二玉のまま戦いが起き、先手の猛攻が決まっています。本局の差異は、渡辺竜王の工夫です」
これからの展開も、聞いてみました。
「前例は▲4七金と上がって、▲4五銀―▲2五桂と攻めていますけど……本局では9筋を保留しているので、後手は1手早く仕掛けられます。そうなると、1段玉が下にいる形がプラスになる、という主張ですね。どこかで先手も変化すると思います」
再開後、3手目……予想外の手で、類型から別れを告げました。
▲6六歩 △5四銀 ▲4五銀 △5五銀
「え、▲4五銀……?金を上がってない形で、ですか!?」
△5五銀と出るのが目に見えているだけに、切り捨ててしまう一手。悲鳴にも似た声があがり、観る側の空気が張り詰めました。
「普通は、ダメな順だと判断します。次に△4六銀と△6五歩の両狙いが受からないので。▲4七金と後から受けても、△6五歩と突かれて後手の攻めが1手早いです」
確かに、受ける筋はありません。そうなると必然的に、攻めの手を狙っていることになります。
「消去法でいくと▲2五桂と跳ねる手しか残りません。ですが、△3七角の反撃は絶対に指されてしまいます。角換わりは、この『桂馬のいたスペース』をどうカバーするかが重要だったのに……。初めてみる攻めです」
信じられないといった様子で、検討用の継ぎ盤を見つめていました。美波ちゃんだけでなく誰しもが、この攻めで繋がるのか疑問に思っていましたね。
・1日目、夕方 塗り替えてきたもの
▲2五桂 △4二銀 ▲1五歩
双方が時間を使いながら、中盤戦が続きます。
先手は予想していた▲2五桂からの攻めを決行して、▲1五歩と端を絡めにいきました。ほぼ一直線の応酬に、検討も熱が入ります。見当がつけやすいですからね。
しかし駒を動かせば動かすほど、先手の攻めが通る変化ばかり出てきました。
「とにかく、▲4五角が厳しいです」
検討の要だと美波ちゃんが示すのは、中段に角を打つ一手。
「△1五同歩には▲3四銀と一歩を補充しつつ、次の▲2三銀成△同金▲4五角が飛車金両取りです。取った歩を使った端攻めもあって、受けきることは予想以上に難しいことが分かってきました」
(変化図)
▲1五歩以下
△同歩 ▲3四銀 △3七角 ▲2九飛 △4六角成
▲1三歩△2四馬 ▲1五香 △同馬 ▲2三銀成 △同金
▲4五角
「手順は長いですけど、飛車金両取りの筋がとても受けにくいです」
信じられないものをみるような表情で、説明してくれました。まだ早計ですけど、と前置きした上で、美波ちゃんは続けます。
「ここから先はお互いに緩められないので、この折衝が勝敗を分ける可能性は高いです。少なくとも羽生棋聖は、後手の陣形を真っ向から咎めにいっています。もし、この仕掛けで先手が良いなら……定跡と常識を塗り替えることになりますね」
この大一番に、みんなが驚く新手を指した羽生棋聖。『運命は勇者に微笑む』そんな座右の銘が、頭をよぎりました。
「棋士には『創造派』と『修正派』がいる、という考え方があります」
どこかで聞いたような単語です……解説で誰かが言ってましたっけ。
「藤井猛九段や佐藤康光九段は前者で、駒組みから独創的ですよね。羽生棋聖は後者の極致ともいえる方で、課題局面や手順に鉱脈を見いだすタイプです。
定跡の歴史を調べるとき、必ずといっていいほど羽生さんの名前があります。新しい戦型が流行したとき、正面からぶつかっていって敗れることも少なくありません。それでも方針を換えることなく挑み続け、定跡を更新する側に回っているんです」
最後の一言は、力強いものでした。
「盤上は、恐ろしいほどの速度で変化してきました。本局が特別なのではなくて……今まで通りの羽生将棋が、この手順をつくっていると思います」
△3七角 ▲2九飛 △4六角成 ▲4九飛 △1五歩
後手はがら空きの地点に△3七角と先に打ち、馬を作ります。先手からみれば一番気にする手ですけど、▲4九飛と回れば、間接的に銀取りも受かっている仕組みです。
△1五歩と手を戻しましたが、あまり評判はよくなかったですね。先手の主張の、ほぼ全部が通りましたから。
先手が互角以上だろう、という見解は期待となって静かな熱気と興奮をよび、翌日へと続いていきます。
・2日目、朝 期待
翌日の朝は封じ手開封の前からテレビで報道があり、世間の注目の高さに驚きました。
「すごいタイミングですよねぇ」
自然と、菜々さんとの話題はその事になって。功績の大きさだけでなく、時期がよかったのだと話し始めました。
「藤井四段のプロ入りから快進撃、加藤九段の多方面に渡るご活躍もあって、今までにないくらい将棋界に注目が集まった1年でしたから」
思い返せば、様々な出来事がありました。これまでも大きな反応がありましたが、今回は今まで以上に盛り上がっている印象も受けます。
永世七冠とは、どういうものなのか。うまく言葉にできなかったので、菜々さんに聞いてみたらこんな言葉が返ってきました。
「人間が定めた、最後にして最高の称号です!」
▲4六飛 △同 銀 ▲3四銀 △8六歩 ▲同 銀 △5七銀成
▲同 金 △5九飛 ▲8八玉 △5七飛成
昨日よりも大量のシャッター音に包まれた封じ手開封。2枚の図面に描かれた手は▲4六飛、盤上から馬を消しつつ手番を握れる本命の一手でした。
何とか攻め合いに持ち込みたい後手は、働きの悪い銀を捨てて竜を作ります。ただ位置が悪く、△3一玉との関係もあって王手竜取りの変化も検討されていました。
差を広げられそうな局面。ここからの指し回しも、まさしく羽生将棋でしたね。
▲6八銀 (上図) △4八龍 ▲5七角 △4九龍 ▲1二歩 △同 香
▲1三歩 △同 香 ▲同桂成 △同 桂 ▲同角成(下図)
先手が攻め続けると思われていた中で、受けに回る▲6八銀。意外に見えますが「絶対に負けない」と主張するような一手です。薄い先手玉の嫌味を消して、形勢を覆される余地を潰しています。
水面下では何度も▲4五角の脅威にさらされている後手は、竜を不自然な位置にしか動かせません。しかし別の手段までは防ぎきれず、今度は▲5七角から端が受かりません。1三にできた馬が、後手玉への王手になっています。工夫だったはずの△3一玉が、これでもかと咎められてしまいました。
▲1三馬以下
△2二金打 ▲1五香 △1三金 ▲6七角
馬は逃げずに▲1五香。取られそうだった駒まで、すべてが躍動するように働いています。金を取らずに▲6七角も、さきの銀打ちの延長線上にあるような一手で、先手陣は強固な防波堤が築かれました。攻めの糸口すら掴ませない指し回しです。
流れるような、綺麗に一本の線が引かれたような手順で有利は優勢に、そして勝勢に変化していきました。
まだどこか現実感のないまま、静かに時間が過ぎていきました。
「もうすぐですねぇ」
誰かに話しかけられて辺りを見回しましたが、人影がありません。下の方から声が……?
「ここですよぉ」
机の下から、まゆちゃんが出てきました。よく見たら、継ぎ盤も用意してあります。もう、動いていませんでしたけど。
「長かったです……本当に」
まゆちゃんから出た言葉は、色んな感情がにじむ声をしていました。
「羽生さんの初タイトルは19歳のとき、この竜王戦でした。……でも1期で失冠が2回、連覇したときも2連覇を2回、通算6期です。これでも十二分に素晴らしい実績ですけど、他のタイトルに比べれば……少ないんですよねぇ」
通算98期を7で割ったら、2桁を軽くこえてしまいます。そう考えると、「少ない」という表現はあながち間違ってないのでしょう。普通はあり得ないことですけど。
「9年前の七番勝負は、100年に1度の大勝負と言われた名シリーズでした。でも、厳しい結果だったことに変わりはありません」
熱戦の末に、3連勝のち4連敗。暗い表情のまま、続けます。
「7年前に再挑戦したときも、2勝4敗。それからも毎年のようにトーナメントを追いかけて、敗れるたびに1年が過ぎていって……。もう、ダメかもしれない。そんな考えが浮かんだことをありましたねぇ」
その年の、勢いのある人が勝ちあがる竜王戦。毎年のように期待が集まっていましたけど、本戦に絡めないまま、長い時間が経ちました。
「羽生さんの魅力は、強い所にもありますけど……タイトルの数が多いから、なんて単純な話じゃありません。将棋に対する姿勢や振る舞い、物事に対する考え方……そのどれもが模範的で、素晴らしくて。情熱を失わずにずっと、30年以上も歩み続けてきました。だから、尊敬しているんです」
一息ついて、少しだけ口調を強くして続けます。
「それでも……いえ、だからでしょうか。この称号は、どうしても獲って欲しかった。最高の偉業を、残すにふさわしい方だと思ったから……」
以前、まゆちゃんは永世七冠を『悲願』と表現していました。
ガラスの靴はシンデレラにしか履けないように、この称号を得られる人は、今この世界にただ一人しかいないのでしょう。
・2日目、夕方 待ち望んだ瞬間
△1九龍 ▲1三香成 △4一玉 ▲4四歩 △9四桂
▲2三成香 △同 金 ▲4三歩成 △8六桂 ▲同歩 △6九角
▲8四香
ゆっくりと、しかし確実に、羽生棋聖の寄せが始まりました。受からない後手は、先手玉を攻めることに活路を求めます。
△6九角は詰めろかどうかは怪しいですが、王手がかなり続く形です。紛れる余地を与えない指し方は何か……9分使って指された▲8四香がその答えであり、すべてを収束させる一手でした。
後手の飛車走りを受けながら、この手自体が後手玉への詰めろ。張り詰めた沈黙のなか、ついにその瞬間がやってきます。
△同 飛 ▲4二と △同 玉 ▲4三銀打
まで87手で先手の勝ち
▲4三銀打をみて、渡辺竜王の投了。
羽生棋聖は4勝1敗で竜王位を奪取、通算7期として、永世竜王の資格を得ました。これで7つのタイトルに存在するすべての永世称号の資格を持つ、『永世七冠』を達成。
途方もない夢物語が、現実になった瞬間でした。
誰とはなしに、自然と拍手が起きて。純粋で惜しみない称賛が込められたそれは、しばらく鳴りやみませんでした。
そこから先の世間の反応は、ご存じの方も多いでしょう。
速報のニューステロップが流れ、新聞は号外を配り、たくさんの方が驚きと祝福を述べました。その中には「将棋はできないが本を読んで、羽生さんを尊敬している」という方もいましたね。羽生善治という棋士の輝きが、将棋界の外にまで伝わった夜でした。
記者会見で淡々と受け答えをする羽生さんは、これまで通りの羽生さんでした。
「将棋そのものを本質的にどこまでわかっているかと言われたら、わかっていないのが実情」
偉業を成し遂げた直後とは思えないような言葉ですが、これが羽生さんの本心でしょう。
誰よりも将棋が好きで、情熱を傾け続けてきたからこそ、紡がれた言葉です。その視線は、記録よりも先を見据えていました。
誰も踏み入ったことのない高み。その場所が特別なわけではなくて。
ただそこに立つ人が、積み上げてきた軌跡が、何よりも素晴らしいのだと……今は思います。
そしてまた、ここからだって、物語は積み上げられていくのです。
これまでへの敬意と、これからの期待をもって筆を置くことにします。
おめでとうございます。そして、ありがとうございました。
(了)